千葉県野田市・旧関宿町にある『鈴木貫太郎記念館』
すずき‐かんたろう【鈴木貫太郎】
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鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は従一位勲一等功三級男爵。
海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任。さらに枢密顧問官も兼任した。
【海軍大将でも天皇から貴族の一番下位の男爵しか与えられず、海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長を経て天皇のまかないさんの侍従長?こんなのは国への貢献度などからも末端役人でしょう?】
枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。一時、外務大臣(第70代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。陸軍の反対を押し切って、ポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦を終戦へと導いた。
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鈴木貫太郎は日本の政治家。男爵。
和泉国(大阪府)出身。
軍人として海軍大将。連合艦隊司令長官、軍令部長、侍従長兼枢密顧問官を歴任。二・二六事件で負傷。枢密院議長。昭和20年(1945)太平洋戦争終結時の首相となり、終戦の折衝にあたった。慶応三生誕〜昭和二三年没
🔲二・二六事件 ~ たか夫人の感動的な証言が残っています
1936年(昭和11年)2月26日に発生した天皇を中心とする日本文化を重んじ、物質より精神を重視、反共産党主義を信条とした愛国青年将校が惹起したクーデター。
事件前夜に鈴木は、たか夫人と共に駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの招きで夕食会に出席した後、11時過ぎに麹町三番町の侍従長官邸に帰宅した。
午前5時頃に安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が官邸を襲撃した。はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。鈴木は四発撃たれ、肩、左脚付根、左胸、脇腹に被弾し倒れ伏した。血の海になった八畳間に現れた安藤に対し、下士官の一人が「中隊長殿、とどめを」と促した。
安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。
安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令した。そしてたかの前に進み、「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、女中にも自分は後に自決をする意を述べた後、兵士を引き連れて官邸を引き上げた。
反乱部隊が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。たかは止血の処置をとってから宮内大臣の湯浅倉平に電話をかけ、湯浅は医師の手配をしてから駆けつけた。
鈴木の意識はまだはっきりしており、湯浅に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と言った。声を出すたびに傷口から血が溢れ出ていた。鈴木は大量に出血しており、駆けつけた医師がその血で転んだという風評が立った。
近所に住んでいた日本医科大学学長・塩田広重とたかが血まみれの鈴木を円タクに押し込み日医大飯田町病院に運んだが、出血多量で意識を喪失、心臓も停止した。直ちに甦生術が施され、枕元ではたかが必死の思いで呼びかけたところ奇跡的に息を吹き返した。頭と心臓、及び肩と股に拳銃弾を浴び瀕死の重症だったが、胸部の弾丸が心臓をわずかに外れたことと頭部に入った弾丸が貫通して耳の後ろから出たことが幸いした。
安藤輝三は以前に一般人と共に鈴木を訪ね時局について話を聞いており面識があった。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」と言い、後に座右の銘にするからと書を鈴木に希望し、鈴木もそれに応えて書を安藤に送っている。
安藤が処刑された後に、鈴木は記者に「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べた。 Wikipedia
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千葉県は鈴木貫太郎を郷土の生んだ偉人としているが、実際には下総関宿藩の飛地だった大阪生まれで 群馬県前橋などで学んだ後に本籍地を関宿町に移しただけでした。
海軍の正装に勲一等旭日大綬章・功三級金鵄勲章を珮用した鈴木
雅子、愛子、眞子さんよりもずっと、ずっと下位の立場で下位の勲章勲章しか授与されていません。国に対する貢献度が彼女たちより低いと天皇から評価されているのでしょう。
2・26事件は天皇の為に立った将来がある稀有で有能な若手将校たちが天皇の命令で素直に武器を置いたらほぼ全員が死罪という汚辱にまみれて命を落としました。会津容保公や徳川慶喜のように好いように使われた後に天皇に掌返しをされて亡くなったニッポン男子は数知れません。
ノーネクタイの米軍人に正装で挨拶に出向いたときの 敗戦しても、部下や国民を310万人を死なせても、自分は生きていた日本軍最高指揮官
山本五十六大将のように昭和天皇が進めた大東亜戦争開戦に反対したためか、戦死しても天皇から『イチ平民の山本を国葬にするのかっ』と反対された偉人もいました。カースト制度の権化?
日本軍最高指揮官・大元帥の軍服画像 (顔はかなり修正してますね)
勲章は全て自分が自分に授与したもの。日本の最高峰勲章でどんな功労があろうが、何回死のうが、国民は誰一人戴けない種類のものばかり
山本五十六大将は『傷痍軍人徽章』を一番大切にしていたそうです。
それは『戦地で負傷した者だけが戴けること』『身分や階級の上下なく拝領されること』だったから。