ー 妻を娶らば才長けて ー
「妻をめとらば才長けて、みめ麗しく情けある・・・」
耳になじんだ明治の歌人、与謝野鉄幹の「人を恋ふる歌」の書き出しである。本をめくっていたらたまたま目についた。結婚するなら、頭がよくて、きれいで、やさしい、そんな女がいいということだろう。
さて、何十年ぶりにこんな文句を目にすると、出かけるときは懐中にモノサシを忍ばせ、出会う女片っ端から計ってみたい、あるいは家内にモノサシを当ててみたいと思うのは多分悪趣味である。
自戒をこめて言うと、初対面でこれこそ鉄幹の歌そのままの理想の女だと思ったとしたら、それは一時の気の迷い、錯覚であると知る必要がある。時間をかけ、多くの女と会い、またできるだけ多くの妻帯者から話を聞く方がよい。
さて、才についてはしゃべることばであらかた判別できる。A さんの話だと思って聞いていると、いつのまにか主語が B さんに代わっているとか、話が長いとか、要領を得ないといった類いである。「かわいい!」と「すごい!」の2語しか発しない女はそもそも俎上に上らない。
次に見目であるが、目の前でこちらにさらしている顔ではなく、化粧を落とした顔に置き換えなくてはならない。その時眼鏡をかけていなかったら、眼鏡をかけた顔を想像すべきである。最近はコンタクトレンズを使用している女が多い。眼鏡は太めの黒ぶちであればなおいい。
最後に情けについていうと、その量は定量である。子どもができると情けのほぼ全部が子どもに移る。旦那はただの給料運搬人と化する。恋とか愛という心情は神さまが女と示し合わせてこしらえた一時の錯乱にすぎない。
多くの女の目指すところは旦那と二人終生巣にこもることではなく、子どもを産み、旦那にエサを運ばせることであり、これらの変容を非難するのは非難する方の修行が足りないというべきである。
このあたりの加減がおおよそわかるようになる頃、時折り旦那の頭を芭蕉の「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」の句がよぎる。