まず、ヨハネの冒頭を抜粋し記します。
「 初めに言があった。言は神と共にあった。
言は神であった。
全ての物は、彼によって造られ、造られた物
に一つとして彼によらない物はない。
彼に命があった。この命は人の光であった。
光は暗黒に照る。しかし、暗黒は彼を悟らなか
った。
全ての人を照らす真の光があって、世に来ら
れた。世は彼によって造られたのに、世は彼を
知らなかった。彼は自分の国に来られたが、
自分の民は之を受け入れなかった。
しかし、之を受け入れた人、すなわち、その名
を信じた人には神の子となる権を与えられた。
言は肉体をとって、私達の中に宿られた。
我らは、その栄光を見た。実に父の一人子の
栄光であり、恩恵と真理に満ちておられた。
未だに神を見た人はいない、ただ、父の
ふところにおられる一人子のみ之を顕された」
(ヨハネ1-1~18)
ヨハネの福音書について、バックストンは
次の様に言っています。
ヨハネの福音書の中に、「いのち」と言う語は
35回使われています。神は、この暗黒の中に、
光をお与えになりました。
主イエスは、人にとっての命として、又、
「光」として送られました。
この書では、神を「父」と称える事が117回に
及びます。マタイでは44回、マルコでは5回、
ルカでは17回あるのみです。
これを見ても、ヨハネの福音書の目的は、ほぼ
分かります。
すなわち、神に向かって「アバ、父よ」と
お呼びになる子としての霊を見ます。
神の子、主イエスは、この世では旅人でした。
ご自分の国に来られたのに、寄留の他国人でし
た。これは何と不思議な事でしょうか。
ヨハネは、この不思議な逆説を認めました。
主イエスは、ご自身の国に来られたのに、その
民が彼を受け入れなかったので、ヨハネは
主イエスが神の子、世の主であられる事を人々
に、なんとか信じさせようと、この書を記しま
した。
「これらが書かれたのは、イエスが神の子
キリストである事を、あなたがたが信じるため
又、あなたがたが、信じて、イエスの御名に
よって命を得るためである」(ヨハネ20-31)
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イスラエルの小さな子供は、父親を呼ぶのに
「アバ!」と言います。
日本語では、お父ちゃん、英語ではパパです。
ですから「アバ、父よ」の翻訳は、
「アバ、お父ちゃん」の方が良いのではと思い
ます。