イエス様の復活についての記事です。
暗黒の悲しみはぬぐい去られ、「本当に主は
よみがえって、シモン(ペテロ)に、お姿を顕さ
れた。」とある様に聖書に応じてなされた復活
甦られた主は、昇天までの期間、10回ほど、
栄光のお体をもって弟子達や人々に姿を顕され
た。顕現の目的は、究極的には復活が確実な
出来事である事が証明されるためであったが、
1回ごとに、その意味するところには相違が
あった。
主が、しばしば仰せられた、みことばの一つ
に「平安があなたがたにあるように(シャロ-ム)」
であった。それは昔も今も変わらず聖霊に
よって主の確かな顕現を頂くたびたびに、益々
心中に深められて行く証である。罪、死、
思い煩い、恐怖からの全き解放である。
しかし今一つの著しい特徴は、主が顕現の
たびごとに、ご自身が「ほふられた」という
事実を、人々に印刻しようとしておられる事で
あった。イエス・キリストは私達の為に、損な
われ、傷つけられた。実にその事実こそ、私達
と関係があるのである。
主は、度々、御手と御脇を示され、傷を見せ
ておられる。不信を抱いたトマスにも、そのよ
うにされた。(ヨハネ20-27)
ここに「贖罪者なるキリスト」という事が十分
に現されている。
愛だけが示す原理、御手、御足の傷を、愛の
ゆえに誇りとして示しておられるイエス・キリ
ストを、私達は、よくよく黙想しなければなら
ない。そして、その御傷をじっと見つめなけれ
ばならない。そうすれば、愛が分かって来る。
愛は愛の接触によって呼び起こされるものであ
る。
十字架に顕された愛にとらえられると、そこ
に応える事は当然の事となる。信仰は心が第一
で、知識は第二の事である。
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「私の手や足を見なさい。まさしく私なのだ、
さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、
あなたがたが見る通り、私にはあるのだ。
こう言って手と足をお見せになった。
彼らは、喜びのあまり、まだ信じられないで
不思議に思っていると、イエスが、ここに食物
があるか、と言われた。彼らが焼いた魚の一切
れを差し上げると、イエスはそれを取って、
皆の前で食べられた。」(ルカ24-39~43)