暑いとブログを書く元気もありません。
今日は、ローマ人への手紙6章です。
私達はキリストに接がれて、その死に等しくば
、そのよみがえりにも等しくなります。
私達の古き人が、キリストと共に十字架に付けら
れたのは、罪の身体ほろびて、この後、罪に支え
ないためです。
私達は、誰に従っても、その僕になります。
あるいは、罪の僕となって、死に至り、
あるいは、従順の僕になって、義に至る。
罪の支払う価は、死です。しかし、神の賜物は
我らの主キリスト・イエスにあって受ける永遠の
生命です。
ここから「静まりと黙想の朝に」(松木祐三著)か
らです。
ここで大切なのは、「キリストと共に」の言葉で
ある。
人が、新しい人生を願っても、自分の努力で得る
事はできない。キリストとの結合によって、新し
い人生が可能になる。
キリストの死は、私の死であり、
キリストの復活は、私の霊的な復活、
私の新しい始まりであると、受け入れ信じる事で
ある。
過去の私は「古き人」と呼ばれている。
古き人とは、罪深い内面性の事であり、肉の性質
とも言われる。(ローマ8-7、ガラテヤ5-19以下)
私達が自分の努力で「古き人」「肉」から解放さ
れる事は到底できない。
ただ一つの道は、キリストと共に十字架に死に、
キリストと共に生きるという信仰によるのである
この様にして、救いは行為に表れた罪の赦しだけ
でなく、内面の罪からも救われる。これを聖化と
言う。
肢体を神に捧げよとあるが、肢体とは全存在の事
神に捧げる祈りが献身である。
パウロは「誰かの僕となって服従する」と言うが
、それは、人は決して絶対自由の存在ではないと
いう意味である。
人間は、時間的にも空間的にも制限されている。
又、思想の持ち方や、生き方についても、誰の
干渉も受けないと言える人はいない。
人間は誰かの僕になるものである。人は何かに
縛られる者、すなわち、神か罪の、いずれかを
主人とし、その僕になっているとパウロは言う。
罪に自分をささげるならば、汚れや不法に縛られ
、その人の終わりは滅びである。
しかし、神にささげるならば、「義の僕」とされ
、きよきに成長し、最終的な賜物は永遠の生命で
ある。
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あなた方が罪の僕であった時は、義とは縁のない
者であった。その時、あなたがたは、どんな実を
結んだのか。今では恥とする様なものであった。
(ローマ6ー20、21)
私自身、全く恥ずべき人間でした。
「あなたは、罪を責めて、人を懲らしめ
その人の、慕い喜ぶものを、シミ虫が食う様に
消し去らされる」 (詩編39-11)
地震や、火災、病、死別、事故など、私達の回り
にあります。そんな全てを失った喪失感の時こそ、
神様に帰る時ではないでしょうか。