西日本新聞社の記事を紹介します。
中村さんは福岡市の西南学院中学校(ミッション・スク-ル)に進学し、キリスト教と出会った事も、中村さんの精神を形作った。市内の教会に通いながら
牧師だった藤井健児(38才)との自宅をしばしば訪れた。カランコロンと下駄の音が響くと「哲ちゃんが来たな」。15才ほどの年齢差があっても、ウマが合ったのか、聖書はもちろん、政治や、文化など、様々な事を語り合った。
やがて、中村さんは医師を目指す事を決める。
藤井さんは、目が不自由である。
「目が悪いのに頑張っておられる先生のように世の役に立ちたい」。交際はその後も続いた。中村さんの長男は健さん。藤井さんの名前から1字取ったと言う。
アフガニスタンの灌漑事業では、多くの若者も共に汗を流した。宿舎の本棚にはキリスト教思想家
内村鑑三の「後世への最大遺物」があった。中村さんが少年時代、受洗のきっかけにもなった本だった。
「みんなの為に何冊か置いといたけれど、読んだわ」中村さんの問いかけを、元スタッフ杉山大二郎さん(44)は覚えている。
後に続く人たちの為に何を残すか
金でも、事業でも、思想でもいいが、最大の遺産は「勇ましい生涯」だと内村は述べる。
弱い者を助ける為、行動に移す。
「誰もが行きたがらぬ所へ行け」と言う中村さんの信条は、この本の一節でもある。
西日本新聞社 中原興平氏の記事より抜粋。
中村医師は九州大学医学部卒業。バプテスト派のクリスチャン。
1984年 日本キリスト教海外医療協力会からパキスタンへ派遣されます。当時、ソ連と紛争状態にあり、戦火と干ばつに悩まされる隣国アフガニスタンには、医師がいない村がある事を聞き、1989年にアフガニスタンへ渡り、診療所を作る活動をした。
しかし、2000年の干ばつの為に多くの人が死ぬのを見て「100の診療所よりも、一本の水路を!」
と決め、井戸堀と、農業用水路の建設に取り組むようになった。
「水は善人・悪人を区別しないように、誰とでも協力して水路を築く。他の所へ逃げようのない人々が人間らしく生きられる様に」
2019年12月4日、アフガニスタンで銃撃を受け召された。