今日も「ヨハネ福音書講義上」(バックストン)から
抜粋し、ご紹介します。
ヨハネ福音書3章、4章と、この7章の比較。
3章でニコデモに、生ける水によって生まれ
変わる事を告げます。
「真に、真に、あなたに告げます。人は水と
御霊によって生まれなければ、神の国に入る事
ができません。」
4章では、サマリヤの女に、生ける水によっ
て絶えず満足を得る事を告げます。
「私が与える水を飲む者は、誰でも、決して渇
く事がありません。私が与える水は、その人の
内で泉となり、永遠の命への水が涌き出ます」
7章では他の人々に分け与えるための水です
「私を信じる者は、聖書が言っている通りに
その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出
る様になる」
主は私達に、この三つの生ける水を与えて下
さいます。けれども、3章の、生まれ変わる恵
みを得ないうちは、4章の心の満足の恵みを
頂く事はできません。4章の恵みを受けない
うちは、7章の、他の人に分け与える恵みを
頂く事は出来ません。
「聖書が言っている通りに…。」旧約において
この様な約束は見られません。しかし、
エゼキエル47章1~5節で、例話をもって、こ
の事を示しておられます。
神殿から生ける水が流れ出るのを見ました。
主は、この例話の霊的な意味を引いてきて、
ヨハネ7-38を語られます。
ヨブ記32-18~20
「…私の腹は、新しいぶどう酒の皮袋の様に、
今にも張り裂けようとしている。私は語って
気分を晴らしたい」
エレミヤ20-9
「私は、『主の言葉を宣べ伝えまい。もう主の
名で語るまい』と思いましたが、主のみ言葉は
私の内で、骨の中に閉じ込められて、燃え盛る
火の様になり、私の内にしまっておくのに疲れて耐えられません」
これらにより私達、各自の事を判断したいもの
です。もし、井戸が涸れたら水を汲む事は出来
ません。私達の心が涸れたならば、他の人に
生ける水を分け与える事は出来ません。
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出エジプト記17-6では、主は、モーセに
「あなたは、岩を打ちなさい。水が、そこから
出て、民はそれを飲むことが出来る。」
この水で、200万人の人々と、家畜の渇きを
いやしました。