「あなたは、その民の不義を赦し、彼らの罪を
ことごとく覆われました。」 (85-2)
「実に、その救いは神を畏れる者に近い」
ここから「旧約聖書1日1章」(榎本保郎著)
からです。
過去の神の恩寵を思い起こし、イスラエルに
繁栄が回復する事を祈っている歌である。
イスラエルの繁栄の回復は、そこに罪の赦し、
不義の赦しがあって、初めて可能であったと、
この詩人が述べている事であり、罪というもの
の解決なしには繁栄というものは、あり得ない
のである。
その逆に、人間の罪というものが、常に人間の
繁栄を妨げているのである。
私達は、ともすると、自分の罪の事を考えない
で、いたずらに自分の願いを神に求めていき
やすい。
この詩人は、その事を覚えて、神が赦して下さ
ったので、繁栄が来たと述べている。
罪というものは、赦される事なしに解決はあり
得ないのである。
私達が神様に対して、罪を犯した時に、神様
との間に、イエス・キリストが立たれ、その罪
を、ご自分に負われ、罪の罰を受けられた。
そこにイエス・キリストの十字架というものの
意味がある。
だから、私達が一番、大事にし、又、いつも
立つ所、それはイエス・キリストが私のために
十字架について、死んで下さった、という事で
ある。
私の罪が赦されるところから、私達の繁栄が、
あるいは、祝福が私達に臨んで来るのである。
イエス・キリストの十字架は、私の為だけで
なく、あの人、この人の為でもある。
私が赦されたと、同じように、その人も赦され
ているのである。
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「聖霊が来ると、罪につき、義につき、さばき
につき、世に、その誤りを認めさせます。」
(ヨハネ16-7、8)
聖霊によって、私達は、罪と十字架について
知る事になります。
私が教会に行き初めの頃、罪の事が分かりませ
んでした。又、十字架が自分の事とは、分かり
ませんでした。
良心的に、人並みであれば良し、とする考えで
した。