兵藤庄左衛門、批評

芸術、芸能批評

 職場、就職

2023-03-12 17:17:10 | エッセー
  職場、就職
 障害者の就職先を探すのは大変だろう。で、わが身を振り返ってというか、わが職場はというと、養護学校職員である。そう、養護学校の職員にとって、教え子が養護学校の職員になってもどってくるという発想はなく、まるっきり自分の職場が生徒の就職先にはあがっていないでしょう。
まんず、障害者うんぬん以前に、精神的、肉体的にダメージのある人と一緒に勤めていられるか、雇い続けられるかという問題もありますからねえ。人を単に戦力になるならないという、機械や物のように扱いたくはないけど、現に困ってしまうものねえ。養護学校として障害や何らかのハンディを背負っている人の援助はしていくべきだろうから、まともに働けなくても、何かできることはないか探していくことは最前線としては必要かも。でもそんな体制なく、個人におしつけられてもねえ。将来的にはワークシェアリング等でハンディに応じて働けるなんてことになるかも。それとも私のような奇人変人の描いた単なる夢物語か。
 今も一人足らず、そのうえ訓練中でえらい大変。本当は一人雇えるはずとはいっても、雇われてくれる人はゼロ。さらにお隣のクラスが一人不足のままになり、もうてんやわんや。訪問の人が来てくれるからやりくりできてる状態。ただ訓練中で手数だけは一人多くなったので、助勤は出しづらい。それがつらい。しかしこの訓練早いとこ終わってほしいが、okが出たとて一抹の不安が。かといってこのまま訓練続行ではまいってしまう。もう前も後ろもふさがって、「毒を食らわば皿までも」の覚悟で、okサインが早いとこでて、しっちゃかめっちゃかでもやっていければそれでよしとしましょう。でも3月で終わりにしてほしいな。私も訪問いきたい。校内うんざり。
 それにしても5年目もうんざり、一年目は訪問いきたいけどいったん校内を経験してからとかなんとかで、あの軍国主義にいやいやつき合わされ、二年目はあの人たちの監視の中、いやいや管理され続け、三年目はあのブロックへいきたくないけどいかされ、一人で三人男トイレで、頼みにしていたkさん腰痛と精神ダメージ,mさん腰痛,sさん内臓と腰痛で結局一人トイレ、そのうえノートの件で親に叱責され、tさん神経質になりノート書き直し命令がちょくちょくで大変、4年目は虚弱とおめでたで休み勝ち、あの人意外と神経質、さらに別のあの人は精神でやすんじゃうというわけでもうてんてこ舞い、やっと2月終わりにトミーが来てやっとほっと一息、もうこのブロックいやなのにまたまたやらされ4月からてんてこ舞い、もう勘弁して。

   仕事も我慢、人生が我慢のように
 人生にも辟易するが、仕事もへとへと、もうやっつけ仕事ばかりで、ただただ早く片をつけるためやってくばかり、しかもやりたくもないこと大半で、我慢ばかりの人生なら、やはり我慢だらけの仕事とくりゃあね。もうあきれて言葉はなし。好いたようにしたらええねん。


   労働環境も商品購入の条件に
 消費者の商品購入条件といえば、価格、品質、量、デザイン等の商品そのものの価値や、会社のブランドイメージ等の付加価値だろう。他には安全性、信頼性等の会社に対する思い入れもあろう。これからの条件のひとつになろうと思われるものは、その会社の労働環境、労働者の待遇だろう。なぜって、こう格差社会では劣悪な労働環境は多かろうし、過労死さえ出るような長時間労働、過度なノルマ要求、違法操業等、数え上げたらきりがないのではなかろうか。これに歯止めをかけるには、消費者からの反応があれば効果的だろう。消費者は単に安ければ買うだろうという認識の尊大な経営者はいるだろう。しかし消費者はそこまでばかではなかろう。労働環境の情報がまったくないので、商品や会社のイメージで買っているのだ。なぜそんな情報が必要かって、あなたの愛する家族や知り合いがその会社に勤めていたらどう思いますか。あなたの愛する人を単なる消費財のように酷使しポイ捨てするような会社を許せますか。人材は育てるもので、会社の一番大事な資産は人材のはずです。その情報はどうやって発信するのかというと、労働組合が一番でしょう。組合がだめなら労働者一人一人の情報発信でしょうか。ただ情報の信頼性のため、できるだけ複数以上の方がいいでしょう。労働環境がオープンに知らせられると、商品偽装や違法行為なども減るでしょう。
 具体的な一例としては、GOODWILLグループのコムスンだ。あのジュリアナ東京の金儲けしか興味のない人が、福祉に手を出してもだめではないかと、はじめから言われていて、結局金儲けのノルマばかりで、社員を追い詰め、福祉どころか違法そのもので、受益者に迷惑を掛け、破綻した。もっと早くから社内の様子が伝わっていれば、ここまで大事になる前に手が打てたろうし、コムスンに頼みもしなかっただろうに、船場吉兆もそうだ。従業員からの情報がもっと早くにあれば、やはり大事になる前に偽装も小規模で済み、会社のダメージも少なくて済んだろうに。会社は消費者や株主に対してのみ社会的責任を有するのではなく、労働者とその家族に対しても有するのでしょう。ミートホープ、赤福でもでしょう。
 すべての消費者はただ安ければ買うのではなく、一部の者は同じ労働者として信頼できる者は助けるでしょう。
 以前アメリカ映画「ノーマ・レイ」の中で、働く女主人公が、労働環境改善のため立ち上がる。彼女はこう言った。「私の子供が将来この工場で働いたときに、健康に安全に人間らしく働ける状況を作りたいのだ。」と。
 労働者は消費者でもあり、同じ社会の仲間ということになれば(そこまで共同体意識は持ちにくかろうが、)、会社の労働組合同士でつながりあい、互いの労働環境をチェックしあい、劣悪な労働環境であれば、是正を促す、公表する、さらには消費者に不買運動を起こしていく。そうすることで互いの労働者の生活を守るのだ。また安全な製品作りにも労働者としてチェックしあい、危ないときは公表し、消費者の安全も守っていくのだ。労働者は消費者でもあり、互いに補完しあい守りあっていくのだ。

   正しい日本語とは何か?
 よく「正しい日本語を使うべきだ」とか「近頃の日本語は乱れている」という話は、枚挙の暇がない。確かに私も若者の聞き慣れぬ言葉に違和感と不快感を感じることがある。感覚的には「乱れている」というのは分かる。しかし乱れているというなら、何を基準にしてそう言うのか定義すべきだ。ましてや「正しい日本語」という言葉を使うなら、なおさら定義せざるを得ない。どうも一般的には一世代、約30年から50年程前の言葉をおおよそ基準にしているのではないかと思われる。その数十年前の言葉もそのときには、乱れていると言われていたはずで、きちんと定義しないとはなはだ分かりにくい。またすべての言葉を定義するのは膨大すぎるのなら、具体的にこの言葉はこうすべきだと、逐一指摘するしかない、と思われる。
言葉はいつ頃から乱れだしたかというと、日本語でははっきりしないが、古代ギリシャや古代エジプトの史料にも出てくるらしく、すでに古代から言葉の乱れは問題になっていたようだ。常にどの時代でも言われることらしい。ついでに正しい日本語だが、以下も正しい部類だろう。「正しき大和、言の葉の仔細を上げ、言の葉のよしあしをつけんとぞ欲す。近頃の言の葉の様、わろきになりて嘆かわしき呈にて、正しき言の葉を用ゆべきことこそ肝要なり。」である。正しい日本語とだけいうのなら、万葉集が編纂された時代の日本語も由緒正しき日本語だ。しかも室町期まではハ行転呼音のため「ハヒフヘホ」が「ファフィフゥフェフォ」であり、現代ではまったく通じない言葉もたくさんある。しかし由緒正しき日本語のはずだ。

・多妻多夫制
 フランソワ・トリュフォーの映画を見ると、人が人を好きになる、それは自然なこと、幸せなこと、でも社会では許されない、道ならぬ恋もある。どうも人間あるいはそのDNAには今の社会システムとは合わない面があるようだ。ねずみを飼育しオスとメスをつがいにしておくとはじめオスはメスに接触しまくるが、次第に回数が減っていく。しかしメスを入れ替え新しいメスにするとオスは積極的にやりまくるようになっている。まさにDNAを残そうと新しいメス相手に奮闘するようだ。不倫をするようなDNAになっているようだ。そこで多妻制にした方がいい。しかし一夫多妻制だと、結婚できない男が増え社会不安をあおるので、多妻多夫性がよい。

・空気が読めないことは、悪いのか
 その場の雰囲気を察知する、あるいは空気を読むということが、やけに気にされる世の中だ。まあ一つの気遣いとしてあってけっこうだし、私なんかやたら気にしすぎてるんじゃないかと思う。しかし昨今空気が読めない人を馬鹿にしたり、「KY」で空気読めないと略して言われたりと、ちとやりすぎじゃない。確かに空気が読めない人に迷惑をこうむることはあるが、だからといって誰も彼もが同じように空気を読むことを強制されていいものか。世の中には空気を読みにくい人が存在するのだ。高次脳機能障害、自閉症、あるいは思い込みの強い人、ピントがずれている人などで、その人なりに誠意があればいいのではないか。その人たちにはさりげなく場の雰囲気とその人が取るよう期待される行動を淡々と伝えればいいのだ。空気を読まず威張り散らす嫌な人もいるが、けっこう空気を読めない人に癒されることもありませんか。

・ブログに書き込むのが読書人?
 H21年2月8日(日)静岡新聞に津原泰水(小説家)が三島由紀夫の「文章読本」について世の風潮と比較して批評していた。その中に主題とは直接関与しないが、世の風潮の一端としてこんなことが書いてあった。
 「……図書館で借りてきた本を速読しては評論化きどりの辛いコメントをブログに書き込むのが読書人、といった風潮に支配されている現在にこそ、高らかに響くべきかもしれません。」
 三島由紀夫の「文章読本」がいかに現在の風潮の中で有効であるのかを述べる一節である。ただ風潮の一端として読書人を批判しているが、それって私に対する批判かいなあ、と思えるほど私の行動に似とります。ただしたいていの本好きは自分で本買いますわいのお。私は図書館で借りて斜め読みして、サッサと返したいどす。本を買う金がないということです。本を買わないしみったれた人なんて、まさに私個人への批判めいていて、気味悪いですけど。辛口のコメントは相手から損害賠償なんぞふっかけられたくないので、あまり辛く言わんようにしてます。この作家の場合、身近に威張り散らしてまるで自分が世の中の主流だと言わんばかりにブログに好き放題書いてる御仁がいて、はた迷惑をこうむっているのかなとも思えます。私の場合他人に威張って言うわけでなく、誰も読まないブログをただ黙々と打ち込むだけのしがないストレス解消。わびしいもんです。だいたい誰も読む当てのないブログを書き込むのってけっこうさびしいもんです。へたに本なんぞ出そうとすれば、自費出版で百数十万円の負担がかかるわけで、この作家のように自腹切らんで言いたい放題書いてみんなに読んでもらい、お金までもらえるなんて、夢のまた夢の先の話ですらい。プロの作家というのは人様がお金を出したくなるもんを書けるのですから、私から見れば神様みたいに偉い人なんです。まあこの文章、私のことなんぞ知らないのですから、私への批判ではなく世の風潮全体への批判に決まってるのですが。こんな文章読むと、ただでさえひがみ根性でいっぱいなのが、なおさらめいっぱいになりますわいのお。それにしても下手なことブログに書いて威張り散らすバカもいるのでしょう。イジケ虫。

・「頑張れば夢はかなう」は傲慢?
JTU高校ユニオンNo.391に山田太一の発言を引用したコラム「アイラーのケ・セラ・セラ第17回」が載っていた。
   一年ほど前、山田太一が雑誌で「僕は一握りの成功者が『頑張れば夢はかなう』と言うのは傲慢だと思っています。多くの人が前向きに生きるには、可能性のよき断念こそ必要ではないでしょうか」と述べて、物議を醸した。賛否両論あるだろうが、とても山田らしい発言だった。
 この発言を読んで、なるほどとなった。「頑張れば夢はかなう」は一面の真実だが、別の一面の不実である。確かに多くの庶民は大きな夢をあきらめ、実現可能な小さな夢を抱いて生きざるをえない。私も人生はあきらめだと思って生きていかざるをえなかった。

・元禄赤穂事件


・無害な花粉がなぜ
 なぜ本来は無害なはずの花粉に人体の免疫機能が過剰反応を引き起こすのだろうか。このままじゃ人類滅亡か。

・19世紀後期のフランス文学史上の詩の疑問
 1870年代になぜ16歳のフランスの一少年が「意図された精神の錯乱によってものを見て、詩を書く。」というアイディアであのような理解不可能な、かつ新しい世界を開く詩を書けたのだろうか。しかもその数年前ウルグアイ生まれでフランスで教育を受けていた、22歳の一青年がその手法をすでに実践していたという事実。さらにそれを読んだ17歳の少年が一応前向きに読み取っていたという書評まである。その後狂人の書といわれたことを思えば、なぜその時代このような狂熱ぶりと理解不可能とすら思われる詩が支持され、一人ならず複数の詩人と読書人が存在しえたのだろうか。もしかすると第三の若き錯乱の振りをした詩人がいたのかもしれない。時代というものは一直線に進むのではなく、気候の変動表(年間の気温変化グラフ等)のように行きつ戻りつしながら進んでいくものなのだろう。

・性欲の満足
 性欲の満足が人生です。「性的人間」の解説に、そんなに性が大事かという発言もあったとのことですが、私にとっては紛れもなく人生の一大事、それこそが人生の生活の満足、生きがい、目標、というかそれをどうにかしないと人生が成り立たないような火急の出来事ですらい。でもいまだ満足できず、満足しあえる相手に出会えたこともなく、幻想の変態女への出会いが人生の希望すらになっています。お互いに誰にもいえない変態性欲の限りを尽くして満足しあえたら極楽でしょう。
 でも互いに分かり合えない面も出てくるのでしょうが、お互いどうにかなるのでしょう。私は好きでもない女と二十数年も暮らしていられて我慢強い性格だと思う。ああ変態パートナーを紹介するというサイトに7万4千円もつぎ込んで1人とも出会えない現実。まあ橘淳一氏からもあの手はやらせばかりのサクラばかりで無理だろうとのことだったけど、やっぱりだめ。01年辺りまでは会えたんだけどとのことだった。また変態M女に会える確立は甲子園出場のような狭き門だとのこと。そして身近な女を愛情こめて調教するのがよいらしいが、その身近な女は変態嫌いの私も嫌いな女と来てて、とても調教する気にもならない。誰かどこかで僕の理想のいや理想なんかどうでもいいから変態女に会わせてくれ。

・どうせ
どうせ人生に悪態ついて、ただただ自分の人生の愚痴ばかり思いついて、人生の不平不満ばかりしか思いつかない、何の充実感もないぐうたら人生をうろつきまわり、どうせ最後は悔し涙もない老いぼれよだれのお笑い人生がくたばっていくだけのこと。自分に納得できず、自分を認められず、自分をよりよく高められず、ただただ中途半端なことばかりしでかし、やらなきゃよかったと後悔し、やらなきゃやらないでやればよかったと後悔し、何は無くとも後悔しか思いつかないマイナス人生、自分で自分をおとしめ、何がおもしろいのか、でも不満ばかりが思いつく、どさぐれ人生、人生をやり直したいと甘い幻想は抱きはするが、だからといって前向きに何か努力するでなし。甘い幻想に浸るだけで、現実には歩めない。いつか理想の女性が救いに来てくれるとでも言うのか、ありえなくても、いつか白馬の騎士ならぬ、愛の女神が現世に救いに来るという妄想にでも浸る以外に、どうやって、こんなくそだらけの現実の中で生きていけるって言うんだよ。

・僕の人生
 僕の人生は人様の金儲けのためのえさにすぎぬ。僕が生きてるのは人様を潤すための道具、いや、鴨というべきか、僕があくせくすればするほど、人様は儲かるっていう寸法だ。僕の性欲は、風俗営業を肥え太らせるための誘引剤、ぼくは豚小屋で飼育される、馬鹿豚にすぎぬ。他人様がおいしく食べるために飼われてるだけ。他にも僕がするあれやこれのすべては他人様の金儲けのための方策に過ぎない。僕は単なる消費財というより消費剤、適当に使われいつのまにやらからっぽで、ぽいと捨てられハイそれまでよ。人生なんてただただ我慢ばかりのつまらぬ我慢比べ、そのうちぶち切れても、他人様はくさいものにはふたをするだけ、ぼくは暗いどぶの中に埋め込まれずぶずぶとくさいへどろを食わされる。それがいやなら単なる家畜はただじいっと、えさにされるのを待てばいいだけ。吸い取られるだけ吸い取られ、何も利用価値がなくなったところでポイ捨てだ。そこで僕の意識もぶち切れて、はいおさらば糞人生さ。こんちくしょう、どさきゃいいんだ、どうにかしてくれ。愛の女神様とやら、救ってくれ。

・破滅型私小説   
 くだらない破滅型私小説ってたいてい、貧乏と愚痴ばかりで何の展望も無く、退屈で陰惨な話をこれでもかって、退屈に語るだけの能無し芸そのもの。私の人生もそのもの。こんなくだらない奴がいたっていうのが、せめてもの救い。近頃芥川賞取った大西賢太氏も同じこと言ってたね。

・生物のオス、♂、雄、牡について  ’13 1/2     
 近頃、オスについて特に人のオス・男についてこう考えることが流行っているようだ。男は女に比べ染色体が1本少ない。つまり子孫を作るため、急遽女の模造品として男を作ったが、急場しのぎだったので染色体を1本減らすしかなかった。そのため男は短命だし育てにくいし病気に弱いし無鉄砲だし浮気性だし喧嘩っ早いしというわけである。ローマカトリックでは旧約聖書で男のアダムの骨から女イヴを作ったということになっているので、上記の話は絶対認めないだろうが、どうも女が原型オリジナルで男は模造品レプリカということらしい。どうも母の遺伝子DNAを子孫に伝えるため息子・男を作り出したようだ。娘の遺伝子は母と父の遺伝子から半々ずつ補い合いエラーを除去して複製していけるが、息子の遺伝子は、父からしか受け継げず、父にエラーがあれば息子もそのままエラーを受け継ぎ、息子が新たなエラーでもしようなら、更にエラーが増加して子孫の男に受け継がれていくのだ。すでに人類200万年の中で散々エラーが積み重なり、だいぶDNAが傷つき減少しているようだ。このままでは100~200万年で人類の男は滅亡するらしい。
母体が妊娠出産子育て中は外敵から身を守ることとえさを取ってくることが十分できないので、オスには瞬発力で外敵を払いのけ、えさをふんだくってきやすい能力を授けたと考えればよいのだろうか。その瞬発力と外敵を払いのけえさをふんだくれる闘争力を女にも使い、ハーレムを作り女を支配し、女は一応安全にDNAを残すという妊娠出産子育てに集中させ、外面的には男が支配するという男尊女卑を築かせたと見るべきか。ライオンやニホンザルなんかがそうかな。

・先進国現代人の依存症アディクション? 資本主義経済社会の功罪? ’13 1/2  
 先進国では国民の肥満、生活習慣病、メタボリックを気にかける。国民の保健衛生医療費をあげているからだ。確かに国民側の自覚と自制も大事だろうが、食品飲料企業側はおいしいものを開発するため日夜悪戦苦闘している。それって国民がおいしくて飛びつきたくなるもの、一度食べたり飲んだりすると、また食べたい飲みたいものを開発するのだ。それは嫌な言い方をするとつまり依存傾向を助長するものを造るのだ。基本的においしいものは高カロリー高たんぱくなものが多いのだ。そういうものをいつもたくさん摂取すれば肥満、メタボリックになるのは当たり前。よほど自覚自制しないとはまるのは当たり前。
企業の食品開発競争から国民の健康を考えないと、単に国民の自覚自制だけ押し付けてもきついかもしれない。

・プロになるための練習量?  ’13 1/2  
 昔マジシャンのプロになるためには1日8時間の練習量だと言われたことがある。これがどの程度真実味がある言葉か分からないが、別の機会にプロのピアニストが1日8時間程度の練習量だといっていたことがある。どうも何事もプロを目指すなら1日8時間練習が基準かなと思える。昔マジシャンのプロになるためには、については続編があってノンプロで1日6時間程度、アマチュアトップで4時間、アマチュア上級者で2時間という言葉も続く。どうもこれもそのぐらいかなと思える。ちなみに1日8時間やれば誰でもプロというわけではなく、その中のごく一部がプロになれるということでプロになる最低限の練習という程度の時間数だろう。これくらいやればプロとして一部の者は伸びてプロになる者と、この程度ではまだなれない者が多いということだろう。でもこれだけ飽きずに毎日練習できるということは、よっぽど好きでないとできませんね。まず好きでいつまでもやっていられるということが一番でしょう。




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