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シロガネの草子

「我が身をたどる姫宮」 その3 

松岡映丘 「伊香保の沼」 木部姫伝説から題材としたものです。
木部姫伝説 
 緑野郡木部(今の高崎市)の箕輪城の城主、木部範虎夫人(通称木部姫)が、武田信玄に城を攻められた時、榛名湖に侍女達共にのがれて、身を隠していたが、城の落城、弟の戦死等を聞き落胆の余り榛名湖に身をなげて入水してしまった。その途端に大蛇に変身してしまったと云うもの。


この姿は、まさに湖に入水する直前の姫の姿。


K氏との生活に疲れ果ててお心に闇が広がった姫宮様もまさにこの姿同様に・・・・・人は精神のバランスを崩すと、顔が無表情という事です。


やがて姫宮様は、心の怒りをある人物に向けてゆくのです。

スペインの巨匠のゴヤの描いた、ゴヤが愛して止まなかったアルバ女公爵。


それは、K氏の「お母様」。今まで、「お母様」の仲は、他人の目には、とても良かったのですが、勿論、姫宮様は不満を抑え耐えてきたのですが、長年の鬱積した感情を突然ぶつけ始めます。



姫宮様のそのお姿は「お母様」にとってもう正に悪魔そのものでしたが、姫宮様はもう押さえる事が出来なくなったのです。


K氏は、突然の姫宮様の豹変に驚きますが、単なる嫁姑のこじれだろうと、ただ呑気に考えたK氏はまず何よりも大切な「お母様」と姫宮様との距離を置くようにするだけでした。


あのダリが愛妻ガラ(10歳上♥️)をモデルした絵画。
 アメリカでは、超有名なダリ。数年前にダリの娘と名乗る女性がいましたが、わざわざダリの棺をこじ開けてDNAを調べましたが結局は何の関係もない事が分かりました。永遠の眠りについていたダリにとっては、いい迷惑だったでしょうね。

 ダリにとって愛妻のガラはもう聖母そのもの。そして、その聖母ガラに抱かれているのは、間違いなくダリとの事です。ダリに多大な影響を与えた女性です。


 K氏にとっても「お母様」の存在は大きくその影響力も相当なものです。そもそも姫宮様の結婚も「お母様」の強い進めがあったかは、世にも聞こえる事です。勿論、姫宮様もその事は、分かっていらっしゃいましたが、あの頃「恋のやまひ」にかかっておられた姫宮様は、そんな事は、どうでも良かったのです。


 何故、あの時、もっとご両親や周囲の意見を聞き、自身の立場、その後の皇嗣家の世間から受ける影響の大きさ等々もっと冷静に考えなかったのかと今更ながらに思いましたが、後悔の過去は変える事が出来ません。

 しかしそれでも、出来るならあの頃、K氏が米国に行っている間に戻れるものなら戻りたいと、ひたすら過去の自分自身を責めていました。



 そんな時、姫宮様の母宮様の皇嗣妃殿下と、妹宮様方は、姫宮様達はどうしていらっしゃるだろうと、お噂をなさっていました。


 K氏の度重なる厚かましい要求を姫宮様は、止めもせず、何もおっしゃらず、ただ恭順に従っているだけでしたので、皇嗣家として将来の天皇を御出しする宮家でしたので、K氏と、そして心を鬼にして姫宮様とも距離を置いておりましたので、日頃の交流も幽かな有り様となっていました。

K氏の方も、自身が当然要求してしかるべき事を、皇嗣家がまったく応じない事が、理解出来ず大変腹立たしい思いでしたので、皇嗣家との交流も同じく途絶えがちでした。姫宮様も常に、K氏に従っていましたので、最低限の音信位しか、なさっておられませんでした。最も皇嗣家の方々は、日頃から姫宮様方の事を常に、案じてはいたのですが。


しかしながら思いきって、妹宮様の方から、姉宮様に「どうしていらっしゃいますか」とメールを送りました。そしてこの歌をお送りました。


「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香(か)に にほひける」


(あなたはさあどうでしょう、お気持ちも分かりません。故郷の梅の花が昔のままに咲き匂っています)

紀貫之作(百人一首より)この場合の故郷は、奈良にあたります。


それに対して姫宮様は、


「いづくとも 身をやる方の 知られねば 憂(う)しと見つつも ながらふるかな」

(自分の心を晴らす場所なんて無いけども、つらい人生と思いながらも生きながられています)

紫式部作

そのようにお返事をして、

三代将軍徳川家光公直筆の画の兎さん


底知れない闇のような目をした、徳川家光公が描いた、この兎(うさぎ)の絵を添えて妹宮様の元にお送りしたという事です。



この絵とお歌が皇嗣家に届けられた時、妹宮様は、これはただ事ではないと思いました。一体何が起きていらっしゃるのかと大層姉宮様の事を、心配なさっていらっしゃいました。



又同じく、若宮殿下も同じく姉宮様からの絵と歌をご覧になられて姉宮様の事を思い、そしてこんな歌を送った、原因は恐らく、K氏にあるのではないかと思ったとの事です。しかし、将来は天皇に御成りになられるお立場で、いらっしゃいましたので、表だって何をどうする事は、お出来になれず、姉宮様の事を案じては何とも情けない思いをなさっておられました。



姫宮様は、いつも優しく暖かく弟の若宮殿下に愛情を注がれておられましたので、若宮殿下も幼い頃より母宮様のようにお慕いになっておられましたが、あの姉宮様が・・・・・あの姉宮様がK氏とご結婚されて以来、姉弟の縁(えにし)が一気に遠のいたのを若宮殿下も大変悲しく思っていらっしゃいました。あの絵とお歌を見られてからは、しきりに、こちらにいらっしゃた頃の姉宮様の事を、思い出さずにはいられませんでした。


三代将軍徳川家光公直筆のみみずくさん
「勿論、ご両親の皇嗣両殿下も何かあるのではないかと考え、K氏の元に人を介して様子を探られたという事だ。そしたら案の定、家庭生活が上手くいっていないうえ、姫宮様のあのご様子。しかしながら、K氏は・・・・・」


 皇嗣両殿下は世の荒波を、幾度も幾度も幾度も経験された方々ですので、姫宮様の結婚生活がいずれはこうなるのではと以前より思われていました。それからきっとまた大きな波乱が起きるのであろうと、それが例えどんな事でも受け入れるお覚悟をなされました。
 K氏の事は、「誠意ある態度」は、到底望めないであろうと、思いましたがそれでも一途の望みは、持たれていました。しかしそのお優しさが、いつも 結局は大きな苦難を、、お二人方が受ける原因となったのですが。


しかし結局は、K氏は皇嗣両殿下の思いは、どこ吹く風と、いう感じで、

「その問題は、母も私(わたくし)も解決済みであると認識しております」

・・・・・と周囲に話をしていたとの事です。当然皇嗣家にもそう伝わるように。K氏は自分の立場、そして何よりも大切な「お母様」のお立場が悪くなる事は、一切表沙汰には、したくはなかったのです。
 皇嗣家にもK氏の言葉と態度は伝わり、両殿下はいよいよお覚悟をきめれたのです。


昔から、K氏と「お母様」は一方で、何故か世間体を気にするような所は、余り気を使わない所があり、又、皇嗣家やK氏一家の事に関わる事で、世の人びとが見逃す筈もなくK氏の家の問題、姫宮様の有り様なども世間にひどく広まっていったのでした。



そういう時、必ず世間に出てくるおしゃべりな「猿」宮内庁関係者や皇嗣家の「猿」関係者達。(シロガネは個人的にこのお猿さんは可愛く思いますけど)


一方その頃の姫宮様は、




姫宮様は・・・・・・その成り行きりを別に何の感情も出すのでなく、ただ夢心持ちで過ごす毎日でした。



ある夜のこと、夜も余り眠れない状態になっていらっしゃた姫宮様ですが、不思議とその夜の夢枕に・・・・・

姫宮様の曾祖母君の川嶋紀子(いとこ)刀自の優しくも凛とした姿が、



そして、香淳皇后のあの暖かい、人を包み込むような穏やかな笑顔のお姿をご覧になられたのです。



今は亡きお二人の姿を夢に見まして、不思議と姫宮様は、お心の闇が晴れてゆく心持ちとなっていったのです。

「うつつには 逢ふよしも無し ぬば玉の 夜の夢にを 継ぎて見えこそ」

(現実に会う手段もないので(せめて)夜の夢では、(あなた)を見続けたい)

大伴旅人(万葉集)

・・・・・そうお二方から伝えられたようでした。

夢から目覚めて、これは、一体どういう事だろうか、お二人共、もうお亡くなられて幾年も経つというのに・・・・・と、姫宮様は何故どうしてお二人が、自身の夢にお出になられたのかと何とも不思議に思われました。 


しばらく、もの思いに暮れた後に、姫宮様は、きっと亡きお二方の血を引く自分の事を案じて、わざわざ黄泉の国から、来て下さったのだと思い、こんな自分の為にと、そのお心の優しさにただ涙にくれるのでした。



「冥(くら)きより 冥(くら)き道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月」

(闇から闇へ入り込んでしまった私をどうか、遠くから照らし続けて下さい)

和泉式部作




 お二方の夢を見まして、姫宮様は、明治の御代に産まれご自分よりもはるかに、過酷な人生をそれぞれ力強く生き抜かれた曾祖母君の事を思い出され、ご自身の今の有り様では、いけない、もう取り返しのつかない過去をただただ後悔の念を思っても今のままでは、何も変わるわけでもない、変える事が出来るのは、この先の道だけだと思いました。



又子供達の為にもこの家の「お母様」とK氏の中心であるここに居ては、ならないとお考えになったのです。そして、決心したのです。

 姫宮様は、ご実家の皇嗣家に二羽の鶏の画を送りまして、世の人達が自分達をどう見ていたのか、ようやく理解出来ました。そして、今後の事を誠に申し訳なく思いますが、ご相談したいと、いうお手紙を書きおくりました。


アニメ「赤髪の白雪姫」 白雪とゼン王子
こちらが姫宮様ご自身がご覧になられていた幻の姿でした。


四代将軍徳川家綱公直筆の鶏の画です。
こちらが現実の姫宮様と「王子」様の姿。


 今さら・・・・・あれだけ自分勝手な事をして、迷惑を掛けてしまったと云うのに、あまりにも虫が良すぎると思われても、今の姫宮様は、皇嗣家より他に頼るべき所はなく、ただただ両殿下の返事をお待ちしておりました。又これで皇嗣家がきっと世の中から非難を受けるだろうと自身の選択の間違いを、やはり後悔せずには、いられませんでした。


姫宮様からお手紙を受け取った皇嗣妃殿下からは


「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝れる宝 子に及(し)かめやも」

山上憶良作(万葉集)

・・・・・と一首この歌を送り、皇嗣殿下も同じお気持ちでいらっしゃるので、いつでもこちらにおいでなさいと、お返事を送られました。

そのお返事を見まして姫宮様は、ご両親の愛情にただ有りがたく、その思いを決して無にしては、ならないと強く決心したのでした。


「熟田津(にきたつ)に 船乗りせむ 月待てば 潮もかなひぬ いまは漕ぎいでな」


(熟田津に船出の月を待った。 明るく光る伊予の海、潮の流れも私たちをさそう。時は満ちた。さあ、いまこそ漕ぎ出すのだ)

額田王の名高い名歌(万葉集)
熟田津は、現在の愛媛県松山市の港です。

その4に続きます。


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