あげちうのブロマガ

報道と言う穴の開いた何か

言える事はある。

「報道に携わる者は創作者に成れない」

何かの真理として、だ。

報道する内容には、実際には「最後の責任」を持ってないから、だ。
持っても困る、それはその人の創作じゃない、”事実として存在した情報を”人々へ伝えているだけだ。それを背にする限り、そこには最終的には、責任が無い。

責任を持たない情報?そう言う物に、”創作としては”価値を設定できない訳だ。創作者の感覚からすると、穴が空いている。都合のいい事を考えていた、聞きかじった情報だけで大金を得る事は出来ないか?報道の立場を利用して。それは無理だ。

そこは道理だ。

「ストリードの連携」それを利用しても、微妙に突破し得ない部分は、実は出てくる。もちろんそこに報道の教唆?或いは期待、そう言うのは出てくるが。それでも、”それ”が出来る事、と言うとただ、そこに有るモノを報じるだけ、と言う…それは限度としてはあって。それに対して是非を問うのは間違いではあり、それはそれとして必要な事として出てくるとしても、それでも期待し得る物、それは実際はそこにない。

報道が世界を変える、事は出来ないのだ。

ただ、”それを可能にする事”を、人々へ伝えるだけだ。


ともかく昔、欲を掻いたか、「新聞記者」は創作的な事をしようとして大きな失態を犯し、その果てに殺人まで起こす、と言う狂気を見せて。「資格の無い奴にやらせるべきでは無かった」それは業界にとっても大きな道理となった、か?それは納得せず、何かの不満をそこに残している様な感覚は有る。仕事を要求されている、意味も無さそうで、スキルも意味がなく、ただ、底に居る仕事。

ともかく、出来損ないのゴミ、というスタンスから、言える事は有る訳だ。

権威性に寄生し、伝え聞いた情報をただ正義として”報道”してただけです。

その結果どうなるか、そう言うのも背負って。

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