あげちうのブロマガ

鳥籠と飼い主と言う安定の是非

それは、不満は残っている。

自身の過失とは言え、多額の負債を免除して貰う為に身請けされた、なんて話が好ましい訳もなく。
そんな状態では、他者に対して何か説教する、以前の問題ではある。
それまで自身が人類の先生であるかのような立ち位置に居たのに、最下層に落ちたかの様な、そんな立ち位置の変化。

自身の過失だ、と言う自覚も…だからだろうか、微妙に持てない状況はある。

とは言え、感覚的には”ここ”に、何かの抑止は発生した、のだけど。「自分の”そんな話”を、自分で吹聴し廻る様な事はしないでしょう」それはそう言う事だよ、そんな。


自分の視点で言うと、いわゆる「テセウスの船」と言う様な、そんな”感じ”で緩やかに推移している、そう言う感覚は今は、有る。
民主主義、既存の既得権益?それは多額の負債と共に、その権利を手放さざるを得ず…”そこ”に、問題ないモノを当てはめて「交換」していく。
今までなら全て人間が担当していた部分の一部を、機械に置き換え、簡略化し、それでいて、既存と同じ、以前と同じ感覚が発生する様に、調整。

何かの、一つの重大な部分が或いは、「取り外された」と言うニュアンスだろうか。

その結果どうなるか?それはまだ、微妙に解らない。


新型コロナウイルスが、或いは「大賀さんの決定に逆らった」と言うニュアンスに発生している、とするなら。逆に言えば「逆らわない」なら、そこにその脅威は発生しない、訳だ。不思議な事例として、K1の強行開催がある。ともかくその後、問題は起きなかった。当時の彼らは何故”それ”が出来たか、何か理由は無かったか。

或いは”そこ”に、「大賀さんの決定は絶対です」そう言う、物が有った可能性は?

もちろん出来れば、現実であって欲しい部分はある。「ストリード」それが”そこ”に有る時、或いはそれに逆らわないなら、そこに新型コロナウイルスの猛威、”それ”は発生しない。実験する、と言うのも中々に問題はある、が。逆に「本当か?」疑念がある状態ならむしろ、K1の様な強行開催、それは有り得るのかもしれない。”ここ”で新型コロナウイルスの罹患者が発生したら、それは”ここ”の主義主張に対して、大きなダメージに成るからだ。

ともかく、K1での罹患者は、出なかった、様だ。

その後、K1の話は何故か、一切報道されなくなってしまった。

今も、アンダーグラウンドな小劇場などでは、自粛要請を無視してそこそこ人を集めての開催をしている、らしい。ただ逆に、そう言う例が報道されないのは、そこに報道としては都合の悪い話、そう言うのがあるから、かもしれない。世界は滅びそう、でさえある。確かに。

ともかく、日本の罹患者、それは減少傾向にはある。

或いはこのまま、「コロナウイルス性急性肺炎」とか、そんな新しい病、として終息していくのではあるまいか。

肺炎に至るまでは、それは、只の風邪だろう。
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