当たり前すぎる。
「趣味の創作は楽しいよ。でも、お金が欲しかったら仕事しよう?」
ある種の結論では、ある。
要するに、その「商業主義に押し潰される」ヘタとか未熟とか、それを守らんとする結果が、「我慢出来ないヘタ」をなんか、先生扱いで前に出すパワーに成ってしまう訳で。「王の権威」と「中華思想の皇帝」その対立みたいな、独裁性の向こう側には同じパワーがどうしても存在し、その行く手を阻んでしまう。その辺折半する必要はあり、何かの諦めは必要になる。”仕事”じゃないとお金は稼げないのだ、それが本当の商業主義。
「プロ」に成らんとする連中を、甘やかす必要は、無い。
改めて、「中華思想の皇帝」それが居ない?と言うか、旧「黄昏の狩人」それが消えてる、それは実感?はする。依存しつつ「自分が!」みたいなのはまだ居ても、その辺、混沌しかない。
意味が解らない。
あるいは
つまんない。
それで、それは最終的に終了してしまう。旧「黄昏の狩人」が有った頃は、「意味は?」に”あげちうが返答していた部分”だ。今は、そのターゲット先を失ってしまった。作者?は単に、不快な断言を標榜するだけで、「意味は?」返事が無い、まるで屍の様。正直、実際そうなのかもしれない少なくとも、作品に対する「で?」それに返答し得る”何か”は、其処にない。有るのは、或いは今は、新しくなった「黄昏の狩人」だ。”それ”は向こうの様子を何となく伝えてはくれる。皇帝は降りたが、黒幕みたいなのは居る…しかし。
それより、ニコニコ動画のカウンタ制御に関わる対立の方が、深刻かも。その「黒幕みたいな存在」をそこに有り続けさせるのは、或いは「踊ってみた」とかを志向する思惑ではあり、それはどうしても商業主義には重い否定感があって、或いは過去の待遇そう言うのに、影響は有ったかもしれない。
ともかく、「昭和は良かった」のだ、まだ。
その記憶が、彼らをそこに、置き続ける。
「創作ダンス」その帰結は、でも良くも悪くも今、「MMDのモーションとして普及する」そこが、或いはゴールの様なモノ…かもしれない。不意に思うに、ダンスそれは、「知っている創作の表現」であり、要するに好意的な「被せ」それである、気はする。何か面白い漫画とかを読んだ、”それ”をその場で、何だか踊りで表現する…言葉では伝えきれないから、だ。
接続的には、「店の店員が売ってる商品をCMしている」光景には繋がる。その時商品をディスったり嘘を広めたりするのは、あまり好ましくない。勿論悪い商品を良いと言う必要も無い気はするが、仕事で有ればしょうがないかもしれない。その辺、大衆も汲んではくれる部分は、多分。
ともかく「その商品が売れない」時、現場が自己防衛するには、真面目に働く以外にどうも、無くて。
ともかく今だに「俺は昭和天皇の飼い犬だったんだぞ?!」を、錦の御旗にしてる”黒幕”は、居るのだが。同時に「お金が無い」それもその場の切実なモノとしては、ある。そこに対して「つまんない」それ以上は言えない。
そこにはもう、何も無いのだ。
「物理模倣エンジン」
ゲームなどで使う「物理エンジン」の、IF的な要求、かもしれない。