日本だけの話、だろうか。
平成に入って特に、だ。創作の利益性がほぼ消えた結果、「売れるコンテンツの権利を持っている」所の重要性、それが非常に重く成ってしまった、と言うのはある。そして結局は、”そこ”の利益を現場のスタッフに配る、事でしかその業界は維持出来なくなった現実が或いは有って…コンテンツ関連は、結局は「一億総テレビ職員」そんな感じになった、訳で。
…ともかく平成の始まりは本当に、「何を創っても売れなかった」のだ。新しい、と言うのも無かったにしろ、ともかく一部の「売れるコンテンツ」それを持つ所に関わらない限りは、創作での利益性など冗談でしか無かった。結果、この体制はしかし、「朝日新聞社」その辺を軸に、妙に階層化され、構築されてしまった…と言う雰囲気は有る。
それは今も、そのまま、何故か存在感を見せている訳だが。
この状況の中で、朝日新聞社の御家騒動?そう言うのは、一つの決着に成ったのか否か。
何にせよ、「カウンタ制御」それは今も、微妙に外れた訳でもなく、そして、「今まで通り」それを、妙に要求されている現状でもある。自由な創作活動を!と言うのは、利益だけ見れば幻想ではある、が。果たしてこの階層をそのまま受け入れていていいのか、それは微妙に謎ではある。
利益性は、大事だ。
しかし、”それ”が何かの制御を外れる様でも困る訳で。
”それ”は、例え「王の権威」売れる創作を創る方法を見出した本人、だとしても”同じ”だ、むしろ逆である。体制を維持する上では、”ここ”の自由、そう言うのは厳に戒められてしまう、それは果たして正義か?と言うと謎だが。しかし?売れる方法論が有る今、無理してその制御を受け入れねばならない理由は無い、問題なら、仮面ライダーに戦隊物にガンダムに、他者のコンテンツは捨てる事も可能だ、利益だけ見るなら。”ここ”を抑止するカードは、次第に弱まりつつはある、制御出来ない悪夢、それによる破綻、”それ”は有る訳で。
信用するには、ちょっと今までの経緯も、そして存在としても、壁はある。
希望的観測と、悲観的把握も、両方とも有る。「なんで”そこ”には踏み込まないんですか?」その疑問は、やがてはアリの一穴になって全てを破壊しないとも限らない。プライバシーには踏み込まない、は逆に、人の中であらぬ妄想として膨らむ事は、良くある。その時、この体制がキーにする要素は幾つか有る訳だが。
最善それは、個人の意識の中だけで出来る物、か。
”ここ”が最上位だが、朝日新聞社は”ここ”に、抑止し得る強い影響力を持っている。
何故?
それは今、何処に理由があるか。