断言し難い結論ではある。
「売れれば良いのか?」
それを境にした、正と非の対立だ。自分としては、
「売れれば良いように整備したんです」
という所だが、”それ”は出来ない、と言うのが相手の反応、には成る。”そこ”に対して説明は無意味、と言う状況はある、ともかく今は、時代の変化と言うべきか、売れれば良い、筈。
…しかし、自腹買いでも「大ヒット!」が創れる時代でもあり。
非常に簡単だ、ペラ紙一枚に適当な絵を描いて「これは100億円の価値がある!」と言って、同意する相手が100億円を支払えば、”それ”は100億円の値打ち。その時、お金は無尽蔵に創れる?訳でもなく…「ペラ紙の絵」を得た方は、”それ”により100億円以上を入手できねば、そこに重い損害は発生する、訳だ。その絵は、それだけの値打ちがあるのだろうか?無かったら、それはバブルか詐欺でしかない。
このお金の増やし方は、要するに仮想通貨の「値段の上昇」その原理、ではあって。
この事態が有り得ないか?と言うと…そう言う訳でも無い、”それ”が「デザイン」と言う物ではあって。或いは車のデザイン、チラシの裏に描かれた”それ”を元に車をデザインしたら1000億円近い売り上げが出た?!というその可能性が、無い訳じゃない。その時、その交換した100億円は”それ以上に”実際は化けてる訳だ。それはどういうモノか?それは、そのデザイナーにしか、細かくは解らない。
この混沌を前にして、「売れれば良いのか?」それは、正しいのだろうか。
壁の前に居る、向こうには、同じくらいのパワー。右か左か?選択が…ある。
ともかく”雅”市場それは、その時「売れれば正しい」その理念の元に構築はしたルールでは、ある。そのデザインの値打ちとは何か?何処に値打ちがあるのか?”それ”を、今の所はかなり細かく精査は出来る、それにより十分納得し得る、「売れれば良品」的な帰結へと結びつける、のだ。単純だ、良い物なら売れる筈です、売れないと言う事は、問題が有ります。
売れれば良いのか?
反論は、まだ残る。
ただその反論が求めているのは、単純に「お金」だ。
この時、両者の是非は、平行線ではある。価値観が合致しない、「お金が必要だ」そこには同意…こそ有っても。正しいのはどっち?を、まだ決めきれてない。ともかく?「売れれば良いのか?」その方は、お金が無い。恐喝を可能にする強制力こそあっても、お金は無い。「売れれば良いです」その方は、お金は?有る。ただ相手を同意させる強制力は無い。もちろん「売れれば良い」だから、売れない物にお金は出せない、”そこは動かない”が。
ともかく「お金は必要だ」その時、相手は、お金を得る事が今の所は出来ない。
大衆は神である、その時、お金だけを要求する、それは間違いだろう。最終的に消えるのはどっちか?それは、物理を前に神のみぞ知る事だが。
「大賀さん」その神判は、果たして。