実感し得る「限界」ではある。
50%の帯域を持つ「意見の事なる等価な存在」が居るのだ。
残念と言うか、「新聞記者は逃がさず殺すべきでは」と言う”ここ”の或いは意向は、その「対する50%の帯域」によって抑止されてしまう、例え青葉容疑者であっても、医者の立場として安直に殺す事は出来ない。ゲームや娯楽であってもこれは対立する、コンピューターゲームは基本は一人で、目的を目指して邁進するが、”それ”と野球の試合と、どっちが良い?
この溝は、どうにも埋まらない。
この微妙な否定の壁は、もちろん相手側であっても「同じ」だ。どうにももう一歩、かなりの部分が、実は思い通りに成らない。環境全体が、コンサート会場で熱気に包まれる!と言う夢想を目指す時、その「一人で部屋でゲームを遊んでる」人々は、”その”実現に否定的なモノを向けて来て、そしてそれは最後まで、結論では否定する。
双方に何かの過失や欠陥がある訳では無い、正論同士の衝突は、結局そうなるのだ。
価値の感覚で言うなら「換金できればいい」ので。1000万円、という金額は、一千万人の「良い」の同意を”そこ”に集められればいい、なら?別に50%の否定領域、”そこ”は考慮する必要は無い。最大で”パーツ単位で”35億円が発生する、時、不足有る事態はそれほどない。しかし、問題になるのは創作で、単一では”それ以上”に膨らんでいく可能性は十分あり、その先での「どっち?」の衝突は不可避であり…そこは永遠に答の出ない衝突、ブラックホールと化していく何かがあったりする訳だが。
どうすれば良い?
「大賀さん」で勝った方が優先されます。
と言うのが、現状での、この環境を創った側の提案ではある。
「大賀さん」と同格な”紛争解決機構”なら、そこは同じ答えを出す、筈ではある。そして、一応は「50%の反対する帯域」も「物理的な戦争」それへの否定はある、それは良くない。結果「大賀さんでの結果をもって決着としよう」それは、一つの正論として同意し得る部分、なのだけども。
この案件は、経営権的なモノの一部を譲渡する、と言う事で納得はする。
ただ、新聞記者を殺す、と言うのは、受け入れ難い。
…とか言う、微妙に不満の残る帰結には成ってしまう、訳だ。
”これ”を更に圧そうとすれば、逆に敗北する可能性が出てくる、そう言うのが大賀さんの決定である。
一応、現状では制作現場に、あの「新聞記者」現場を侮蔑し奴隷の様な扱いをし、ごり押しで自分の意向を導入した結果で大失敗になり多額の損失や悲痛を創ったにも関わらず責任を取らずに逃げた、様なゴミを、その現場に入れない様に出来れば良い、のだが。不安は残る、相手が死ぬまで安心感が無い様な、それはそう言う事をして来た相手ではあり…しかし、ともかく今も、大賀さんの決定は、彼を殺す所までは、行ってない。
そこは、従わねばならない。
じゃないと、物理的な戦争が始まり結果、”誰か”が犠牲に成りかねない。
悪夢は続く、虎視眈々と、「反逆者」はこちらの理想、それを崩そう壊そうと、浸食を試みているのだ。安堵し得る日は来るのか、果たして。
これは、理想だろうか。
常に、問われる話。