あげちうのブロマガ

因数分解さえ解らない時が有る

感覚の問題ではあるが。

「異世界理論」については、逃げ道?に成らない部分はあるのだろうか。

今の自分の理解として、「異世界が有る」と言う把握は基幹でさえ有る。世界とは統一的で有りつつも無限の個性の産物として存在し、相互に影響しあい世界は維持されているのだ。一つの世界に何かの幸運を齎す時、その「御礼」として、現世へ幸運がフィードバックされやすい。この時、必ずしもギブとテイクが等価に合致する訳では無い、が。それでも、相手の世界に対して何かの貢献をした、それはそのまま単純に喜びではある。

だから、その理解からすると「誰?」と言うのは、基本的には意識しなくても良い、のだけど。

簡単に言うと「紙」という仮想空間があり。”そこ”には数多の世界が描ける。描いた物は単に人形かそれに類するモノでしかない、命が有る、訳では無いが。ただ?”それ”が別の世界にシンクロする時、それは或いは勝手に”次”を語り始める…そう言うのが作家の感覚?ではある。そこに居るのは何処まで踏み込んでも感覚では人形でしかないが、向こうの世界を見るモノには成り得る訳だ。

その上で、その人形劇を”向こう”にシンクロさせていき、大事な所で「こっちだ!」を選択してやる時、それは相手には見えない思いもよらない幸運…向こうでは”そう言うモノ”と化す訳で。

人が神に感謝する瞬間ではあるがそれは、余所の世界の作家?或いは”それ”に対して感謝している訳だ。この結果、相手の世界を救えれば、それは、その成果として有る描いた作品は、現世に利益となる、訳で。

こういうのが「異世界理論」と呼んでる感覚ではある。この時、よりパワー、技術、絵とか動きとか音楽、演出、人々の意識が集中するモノ、その投入はより介入するパワーを高めてくれる。大きな運命を動かそうとするなら相応のパワーが必要だ、だからこそ、大金と労苦を費やし、映画やアニメは創られる。

…ただまあ、どうしても「誰?」この追及は今も、微妙に止まらないのだけど。

今までの世界は、この感覚が無かった…それは相変わらず、脅威とは思う。創作に描かれた存在は、ほぼ必ず「現世に居る誰か」だった訳だ。それに対して「先生」らは、或いはおもちゃを操る様に描いていた、そんな作品群が売れない、それは道理でしかない。

この理解は逆の理解にも繋がる。向こうの世界に「悪しき運命」を送り込む事も出来る、訳だ。人々も勿論、理解?はある。だから、「好ましくない結果」に対しては、異常とも言える拒否感を見せる事は多々ある。”それ”は結局、現世にも良くない運命それを送ってくる口実に成るのだ。それをでも、意図的にやろうとするパワーも、有る訳だが。

「売れなかった」時は、大概は向こう側に好ましい結果を送らなかった、と言う事には成る。「良い結果」とは何か?は、ケースバイケースだ、ハッピーエンドだけが「良い結果」とも言い難い、だから。最初の企画意図、それは重要には成る。

ともかく創作と言うのは換金性を考える程、どんどん面倒な物に成っていくので。自分としてはもちろん適当な安全装置、”それ”は是非必要、と言う事から”雅”市場、ストリードの連携、そう言うのを構築した訳だが。

多少、想定外か、状況に変化は少しある。「ストリード」を使えない存在が居る、それも微妙に想定外だ。それはそれとして、やむを得ない話として理解せねばならない、のか。ともかく、状況に若干の面倒さはある。

多数決と正論、勝者は果たして。


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