深刻な問題だ。
キャラクターをデザインする、としてしかし。
本人のデザイン?では「”それ”をコスプレしてる人」にしかならない、と言う。
当り前なのだが、”それ”は、そのデザイナーでは無い。
理解としては自分とは異世界に居る”誰か別の人”だ。
ただ、目的の様なモノとして、”それ”に自分が成らねばならない、のだが。
結局、”それ”は単に、「”それ”をコスプレしている人」にしかならない。
…それが”解る”と言うのは、一つのエポック、進歩ではあるのだけど。
ただ”そこ”に残る衝動その物は、やっぱり消えはしないのだ。
簡単に言えば、”ここ”で「歌っているその本人に成りたい」訳だが。
帰結は、”それ”をコスプレしてる人、にしか成らない。
それはもちろん、覚悟とか経験とか?そう言う話なのだけど。
そして今は、コスプレイヤーとして人気の人、と言う訳でも無い。
コスプレイヤーとしては或いは覚悟と言うか、理解が足らない?
アニメキャラをコスプレしてる何々さん、の絵は、アニメキャラをコスプレしてる何々さん、をコスプレしてる誰か、という絵に成ってしまう。
「そのコスプレ具合は悪くない」のに、視聴者は何だか混沌として、不愉快になる。
”微妙に歪んでいる”のだ。
例の朝日新聞元社主、村山美知子氏の”介入”の、その後遺症の様な話だろうか。
それとも、元凶に成った?芸術家、それの不足が招いた深刻、だろうか。
男女の性差、その問題かもしれない、特に男性の創作を女性がコピーすると、大概は狂う。
”それ”が最深部?かで、要求を満たせない自分に、邪を交えて混沌としている。
何だかとても古い話だ。
しかし、今でもまだ残っている。