その時、”王様”が言った。
「最後に、一人一個、欲しい物を上げよう」
その時に、その人は「グラディウスでの成功」を求めたが、
あげちうは「FM-NEW-7での重ね合わせルーチンの実現」を求めたのだ。
その人は、グラディウスを創れるチャンスを下さい、とお願いして。
あげちうは、ゲームを創れる能力を下さい、そうお願いして。
現状、後者は或いは王様だが、前者は「無能」そう言われる状態。
感覚の帰結として、「クスィーガンダム」それは、”コナミの”アーケードゲーム指南書、ディレクター虎の巻、とでもいう物だ、ったが。
「ペーネロペー」それは今も、「あげちうの」ゲーム制作指南書、創作虎の巻、と言うモノに成っている、訳だ。
どっちが欲しい?と言われた時、ほぼ間違いなく前者だろうけど、造形的にはクスィーガンダムと、ペーネロペー、ではある。
良くも悪くもストーリー的にも、前者はテロリストに渡ってしまったが、後者は腐敗した連邦軍の管轄のままだ。前者はかなりの無理をしようとするが、後者はしない。
とは言うが、前者こそがあの、「グラディウス」それを作ったのであり。
良くも悪くも、「閃光のハサウェイ」それは、富野監督直々の創作である、プロット的な物は外部であっても、だ。「他は?」それは、その時は出てこなかったのだろうか。「どっちか?」だ、今後の話として。色々考える上でも、富野監督の状況でもペーネロペーの方が優先、ではある。「現場のスタッフに、その能力以上は要求出来ない」のだ。納期も限られ、予算も無く、期待し得るスキルさえ疑問がある、そんな環境での「それでも結果を出す」何かとして、ペーネロペーそれは”意味のある結果”ではあり、評価はし得る、多分。
当時の問題ではある、この辺全部、富野監督の「体験的な主観に過ぎない」のだ。ともかくここで、「クスィーガンダムはペーネロペーに負けた」と言う結果は、そのまま「次期主力はペーネロペーで行く」事に成ってしまった、そう言う事かもしれない。
「悪魔城ドラキュラ アーケード版」それが売れなかったから、だ。
世間が求めるのは「グラディウスは如何にして創られたか?」それである筈だ。こんな、高校の文化祭にお忍びで発表された、そんな企業の研究成果じゃないのだ。「それは違うのでは」当時のクスィーガンダム側は、疑問を否定した、ほぼ断言に陥った、だからこそ「閃光のハサウェイ」は”そう言う”展開になった訳だが。
ともかく「悪魔城ドラキュラ アーケード版」それは、売れなかった、と言う事実は覆らなかった。
「グラディウスを創った」その感覚は、その事態を当時、受け入れる事が出来なくなっていた、そう言うのはある。
状況は、当時でさえ平等だった。「何が欲しい?」それはその人が目指すモノの問題だ。どっちが?と言うのは今も不明瞭だ、実際今の自分だって、「創れるのならグラディウスを創りたい」訳だが。それは、PCと言う環境を前にしては、ほぼ有り得ない、「メモリ足らないのだけど」それで足せる環境は、”ここ”には当時も無かった。
現実もそうだ。
出来ない事は出来ないのだ。
その上で、目的に到達するルートを目指すのが、リアリティだ。
平成はでも、その決定を無視し、クスィーガンダムを選んでしまった?訳だ。
何もかも、その後遺症ではある。