「理想の監督とは?」だ。
監督は何をするか?と言うと、実際はほぼ、何もしない。
特に今なんか、外部に「ストリード」それを求める時、それに問題が無ければ後は殆ど「居るだけ」だ。しかし、もちろん現場は、その時の方向性、価値感?それを監督に依存する。監督はただ、”それ”に対して良いか悪いかを示すに過ぎない。
しかし、その時、分岐の様なモノはある。
現場重視で行く時、「これが足らないから創れ」は、言えない。
「これが足らないので、”創ったから”これを使え」は、言える。
前者がクスィーガンダムであり、後者がペーネロペーである。
前者を認める時?現場は、理不尽な暴君に支配される事には成る。
その時、後者なら、その「足りない!」苦境を打開したのは、その監督のスキルだ。
今の感覚で言えば、文句なしに後者、ペーネロペー一択、である。
監督はその、不測の事態を自力で補える、そんな能力を持って無ければ成らない。
しかし、そんな「ペーネロペーで」なら、クスィーガンダムは「いらない」のだ。
いらない。
クスィーガンダムで、成功しない、訳では無い。
ただ、劇中でもそうだが、うっかりするとテロリズムに傾倒し易い。
監督の横暴が許されるから、だ。現場に無理を強いる事が許されてる。
しかし、結局は運用内容、正義の上で使用されれば、それは十二分に有能ではあり、そしてそう言う状況、”それ”が窮地を打開し得る事態それは当然の様に発生する。
「貴方は昔、歌手を目指したそうだね」
「いや、目指したというか」
「歌いたまえ」
”それ”が、新たな可能性を切り開かない、とは言えないのだけど。
現場としては…ちょっと困るだろう、人によるが。
正義の上で、善き人が、良き目的として運用すれば、”それ”は無意味では無い。
ペーネロペーにしろ、悪しき目的で使えない訳じゃないだろう、しかし、自身の上位を持ち、その存在が無ければまともな運用が出来ない?と言う大きな制約は、何かの「枷」を持った安心感、そう言うのはある。
今の想定で、クスィーガンダムは平成の間、結論で悪しきパワーによって運用されてしまった、そう言う面は多々あり。そもそも「ペーネロペーで行く」事に決まった物を反故にして”これ”を使い続けた様な感じだ、それはそのまま、テロリズムに成っていった、可能性はある。
小説の通りに成っていく様な、その是非ではある。
クスィーガンダムは、結論で言うと否定された。
あくまでも、同人市場での存在に限定される様な、そんな。
そこに出来てしまった物、だ。
同人では、結論では暮らしていけない。
それでも、それはそこに有るのだ。