結論は出てる。
気はする。
朝日新聞社の御家騒動、と言うのがあるなら、
それは「血族派」が敗北?したのだ。
今後の、状況の改善を図るなら、「旧村山派」、そっちが主権を握るのが求められる。
ともかく【血族派」最大の問題は、前者のフラグシップが「新聞記者」だ、と言う事だ。
それは過去に売春婦を強姦し殺して、”それ”をその権力を用いて隠蔽した、と言う過去を持つ結果、そこに必要な能力を、”一切”持てずに居る。
最早、物理的な帰結だ。
因果応報の様な話でしかなく。
彼に対する「無能」と言うフラグは、彼が死ぬまで付き纏う物ではあり。
ただ、罪状?を考えると、道理でしかない。
問題は、血族派が、その「無能」を捨てる事が出来ない、事だ。
貴様は無能だ!と罵倒しつつ、何とかしろ、そう恐喝する感じ。
淀み、腐り、歪んでいくそれは、過失しか、発生しなくなっていく訳で。
「大賀さん」での戦闘結果としては、血族派が負けて、”それ”は今後、実権と言うニュアンスからは排除される、と言う事には成る。
結果では、だ。
彼らがその決定に従うか?は別問題だ。
ただそれは、フラグシップが無能である、と言う現実から考えても、ただ「不服」だけ残して全滅する、と言うのが…今のシミュレーションではあり。
相手も現在はほぼ、実感し得る事態、と言う状況でも有るらしい、が。
それでも、「不服」だけは、そこには残っている。
利益性を目指す時、そこには必ず「王の権威」と言う、特殊が居る。
平等、公平、そう言う理想からすれば、”それ”は「居てはいけない存在」では無かろうか。
物理法則が結論で一つしかない時、”それ”に対して最大にシンクロするのも一人しか居ない…「人間には個性が有るから」だ。その結果、一人、奇妙な特殊が居る。
…一応は、これもまた、物理的事象ではあり。
ただ”それ”が、結論で「ストリードの連携」、「”雅”市場」、「大賀さん」それを構築した、のも一つの物理ではあり。
現在の「大賀さん」を最終決着の場とする時、「王の権威」それは、概念上は意味がない。
昭和の頃も、昭和天皇は、居るのは解っていても、ある種の謎多き不在だった。
ただ、独裁性?「自分の創った物が認められる」その悦、”そう言うの”を求める時、それは必要な立場だったのだが。
今後は、「売れた」結果以外での認証は、無い。
そこに道理を見出す事は出来る、ただ、結果論だ。
売れなかったけど認められたからお金は貰えた、そう言うのは、基本的には無い。
「認められた」=「売れた」その、帰結が今の「平等」ではある。
「反逆者」その実態はほぼ、無い。
ただ、その不満だけは不意に、そこには有る。