曼珠沙華問題は続いている。
PVも含め、この歌の内容は「或いは夫に操を立ててる未亡人に言い寄る男」と言う図、ではある。そして、「それは駄目だ」と言う結論は出ている。だがクリエイター的な立場、だろうか、このレベルでの「ダメです」と言うのは、同意しかねる。また「その感覚に成る」人も或いは少なく。そしてその先に、例の「新聞記者」も、不意に居るのだ。
この作品が肯定される時、自身が当時目指した?”それ”もまた、肯定し得る。
その先の不幸な選択をしてしまった、相手の方に問題がある。自分は悪くない。
自分はあの女性を救おうとしたのだ、なのに、自分の想いを拒絶した、だから。
そして、「自分は正しい」だからこそ自身は、それを罪に問われる事が無かったのだ。
その時、そこに発生する物はある、「なら、罪に問わねばならないね」そう言う。
しかし”それ”は今も、天安門事件の是非の様に、何かの混沌に阻まれている。
集中する物はある、是が非にでも。その為には、如何なる方法をも。
これもまた、何かの混沌のまま、だ。同意と「しかし何故自分が」その理不尽と、せめぎ合う物は今も微妙に、答えを見出せずに居る。
「朝鮮王朝の末裔」それは、皇帝と言う”神”を制御する事を指向とする。”それ”を持って何かの無理を通そうとする、訳で。しかし今、”それ”が「この事態の打開を目指している」そんな感覚。
なら、何処からが原因でその破綻が起きたか、それはもう解らない位、だ。
「朝鮮王朝の末裔」が、「中華思想の皇帝」それを刺激しなければ、その”無理”は起きなかったかもしれないし、”それ”を発生させたのは「王の権威」昭和天皇の存在故で、それをまた支援しなければ、「中華思想の皇帝」も発生しなかったかもしれない。ともかく「朝鮮王朝の末裔」それが存在感を見せるのは、「王の権威」その特権的な存在による。その中で、やがては時代を破綻させて行った、のだが。
「大賀さん」は、ある。
それは今も、「その決定は絶対です」それに対して明確な反論、それは無い。
ともかく集中するのは、「新聞記者」それが、売春婦を強姦し、自殺させたが、”それ”を罪に問われる事が無かった、と言う曖昧な事実?だ。”そこ”にはそことして、何かの固執がある、自分は悪くないそして、”それ”を今もまだ、明確には罪に問えていない。
その是非。善か悪か?は、奇妙に明白なのだが。
”神”の思惑を今も、微妙に測りかねている。