”マスコミに”責任が回った、という部分は有るのだろうか。
ここで、「報道の自由それは存在しません」そんな、権利の喪失が起きた、感じも、する。
感覚を説明するのは難しいが、コンテンツの作者は、それが広範囲に広がる時、”その”コンテンツに「居る」人々の声…を拾う?感じがあって。「大衆は神である」その思想的にはあり得る事態、だ。「価値」とは人々の同意の束であり、そして人々の意識とは最終的に「神の一部」として一つの場所に有る。あくまでも、”それ”は個人を区別して仕切りを置いているに過ぎない。結果、一つのコンテンツとは数多の意識が集う「仮想の国家」の様な状態であり、作者とは”その神”である。もちろん?その神のさじ加減次第で人は容易く居なくなる=価値が無くなる、訳だが。逆もまた真なりだ、上手く存続させ続ける事が出来る時?精神は富み、余裕が生まれ、それは最終的には現実へもフィードバックし得る…そう言う希望には成る訳だが。
その中での声の大きさというか、報道?それが、不意にそんな事を言う場合がある、訳だが。
ともかく、自身が維持する?領域の中では、今回の色々な事態によってか現実の報道?それは、”雅”市場のルール、「如何なる個人を対象にしても、プライバシーを無許可で報道も調査もしてはいけない」「犯罪の告発であるなら、その限りではない」それが適用された、様な感じでは、ある。
一連の何かに、「報道」その過失があった、そう言う事、だろうか。
ルールがある、上の「プライバシーは侵害しては成らない」それは、もちろんか報道にも適用はされる。犯罪が罰せられ、刑に処された、ら。それ以上はもうプライバシーではあり、興味は有っても解らない、それは出てくる。ちょうど、岸田総理の息子も秘書官を更迭された、という話。一連を覆っていた”感覚”が或いは報道のそれで?それがここで、大きな喪失、問題、それを起こして、その結果、だろうか。
内輪だからと言って特別扱いはしない、それは正義ではある。
日本の倫理に残って居た一種のバグが、ここで補正せざるを得なくなった、そう言う感じだろうか。
感覚では、”それ”は今までかなり無茶苦茶な事を言っていた、部分はある。「紛争解決機構で決着にするなんて以ての外だ、独裁者の横暴を許すな、”私”が全てを決めるべきなんだ!」自己矛盾で出来ているのが人間かも知れないが、結局は独裁創作?”それ”は最終的には正義を語りつつ”そう言う事”を言い出す病理はあって。共産主義の闇かもしれない、しかし、それは結局は大統領だろうと総理大臣だろうと起こりうる話、であって。人間個人の能力に過剰な期待をする、それは間違いではあるが、衝動は残り続けては居る。
対立?は、紛争解決機構での決着派と、”それ以外”での決着派、その様相ではある、のだが。
後者の主体がマスコミだった、そう言う事、だろうか。
個人的視点では、99.98%の同意を通す為に、0.02%の反対を否定した、結果が先日の散弾銃乱射事件ではある、のだが。”その”反対の足場、それがマスコミだった、そう言うのは有るのかもしれない。逆らえない存在を背に、独裁かを通す先で、あそこまで行ってしまった。後ろに居た人々は相応の責任を問われた、そう言う?
雰囲気はまだ、もちろんか?不満それは残って居る、剣呑と共にそれは有る、訳だが。
ともかく”この”領域では、「マスコミに報道の自由それは存在しない」事になった、のかも。
つまり、プライベートで有るなら自身の過去の失態痴態、現在進行中の一般的でない話、それらの開示を恐れる必要は無い、という事ではあるのだが。
特攻隊、それは今も、或いは悪夢として残ってる気も、する。