洗う心とは~???
その前に!先日ファンの方から教えていただいて、ロイ君とアリスの今年12/12
来日決定知りました~♪ ありがたや~ワーイヽ(゜∀゜)メ(゜∀゜)メ(゜∀゜)ノワーイ
実はですね、昨日たまたま友達と浅草寺に行って( ゜Д゜)ノ⌒⑤┃奉納┃投げて~の
「ロイ君に会えますように、F.I.Rに会えますように」と願っておりました。
注)五月天にはもう年末は会えないのはわかっているのでこの二つに絞りました。
そして帰ってからのお知らせ!!まさにしばし感動の嵐~。もうC-POP会員になって
ガンガン動画見たろうじゃないかい!って感じです。
そして、今日はこれ少し前にロイ君が書いたであろうブログがございまして、
大陸のファンサイトで更新されたよと、そうあったので探しに探して見つけました。
ってえらい長い文章でして、このタイトルは
喜びの時の言葉は多くの信用を失い、怒るときの言葉は多くの体裁を失う」?
ってどういう意味なのだ?
下にどどーっと文章が続くんですが
「自分がある物事に関して一生懸命知恵を絞って説明し終わったときに、相手が必ずしも理解してくれるとは限らない。
だけどそれは又相手に理解できると期待した事の場合相手はこちらの意志を汲んでくれて、
ちゃちゃっと「分かりました」(私ははっきりと理解しました)という。
全てを託して信じたこの「理解しました」という回答の状況下で、僕はいつもある一種ワイヤーの上で前に進む感覚がするんだ。
それはもし対話が相手を信じてないという前提の下行われるのであれば、このような感覚になるだろうし、
それはまた僕自身に罪悪感をもたらす、。だけど相手が次に続いてくる対話が完全に理解しないままで討論をする場合
僕はすぐにロープの上で足を滑らすが如く、たちまち大きく口を開けた広い谷底へ落ちてしまい、あたりを探っても
何も掴めず、訳もなくもがいてしまう。
分かりました。(はっきりと理解しました)のこの4文字はある種の程度を表すもので、実はそれはある種の「承諾」
でそれは例えば「僕は一生君を幸せにする。」なんて言い出した言葉とかもなんか薄っぺらい、でも言ったという勇気はある。
勇気を持ってこういう一言を言うにはエネルギーがあふれていて、このようなエネルギーはお互いに一生支えあって
生きていくんだっていうエネルギーになると信じている。だけど全力を持って注いだ浪漫なのに
どん底に落ちた時にその砕けそうな痛みを受け忍ぶ事が出来るかどうか分からないのに、顔には笑顔を浮かべている。
幸せとは人によって違うものだ。
「承諾」に関して言えば、それは一種の自ら望んでした首輪と足かせだ。相手の願と信頼の範囲内に
閉じ込めて、更に価値観の相違の擦り合わせの中に自分を封じ込めて「聴いたら自分は理解しました」と。そしたら
この四文字が僕のに一生どうしようもなくのしかかってきて、だけどもし次に来る対話が切り込める理解の範囲内であったら
困惑を取り越し、無力になって、自省の峡谷に落ちて今まで歩いてきた承諾というワイヤーを辿って
お互いに近づけるところまで手繰っていき、結局は谷底へ落っこちて、それはある種の意識のすり減らしであって
お互いの生命を不要に無駄にしたくはないし、それがただの誤解であった場合でも、お互いがあなたがそうであれば
私も分かりましたって気を遣っていうし、でも結果的にはお互いに何も分かっていない。
それゆえに、100%信じる、信じない間を揺れ動き続けるということは神様が与えた課題で、
ひょっとしたらこんなにも極端ではないかもね。 だけど 心を洗わなきゃ、素直にもなれない。
という、。。なにかかなり色々と深く物事を考えてるんだね~と
訳してこれがあってるかどうかわからんけど、思った。
まず懐疑心から始まっちゃうんでしょうかね~。それはなんとなく分かる。
信じていたのにある日突然見せられた「?」な言動やら行動があったりしたら
懐疑心どうしても持っちゃうだろうし。でも確かに自分の心を洗わなきゃ
ずっとこの懐疑心とかそのワイヤー手繰ったり、落っこちたりも
違う方向になる可能性も否めない!!
ということで京都で色々考えてきたのかな~
私も高野山に行って以来なんとなく僧侶の書いた本見てみたり
もしかしたらこういう悩みもシンプルに解決できそうな気も~
ということで本日も色々と考えるテーマをくれたロイ君に感謝!
12月にまたいろいろ話聞けるといいな~