「先生…」海に沈んでいく子たち 90まで母は苦悩した
戦時中、沖縄から船で疎開する学童らが米軍の魚雷で犠牲になった対馬丸事件から22日で76年。生き残った引率の教師は自責の念から長い間、口を閉ざしていた。晩年、事件を語り始め、対馬丸の記憶をつづった短歌を残して逝った。その長女が今年、母親の遺志を継いで語り部になった。
子供等は蕾(つぼみ)のままに散りゆけり嗚呼(ああ)満開の桜に思う
こう詠んだのは、那覇市の天妃(てんぴ)国民学校に勤めていた新崎(旧姓・宮城)美津子さん。事件当時、24歳だった。
美津子さんが初めて人前で、対馬丸について話したのは2006年、86歳の時。戦後、移り住んだ栃木県での講演会だった。60年余が過ぎていた。
「私は地面の下で生きていくのだと思っていました」「よろしくと頼まれた父母たちに、とても会うことができません。慰霊祭も行けませんでした」
講演に付き添った長女の上野和子さん(73)は、母が対馬丸の生存者と知ってはいた。だが、家族も聞いたことのない話に驚いた。教師だった母が不安がる親を説得して学童を船に乗せたこと、その教え子たちを守れなかったこと……。娘の知らない母がいた。
娘の和子さんさえ知らなかった母の悲劇。没後に見つかった大量の短歌から、美津子さんの苦悩に思いをはせます。
ただ、それまで口にしなかった…
(朝日新聞)
対馬丸での学童疎開、子供たちは修学旅行に行くかのように出発して行った…とのこと。
親子離れ離れになる事に不安を抱いた親御さん達はたくさんいた。
それでも、これから激しくなる地上戦を理由に半ば強制的に疎開させよという軍部の命令に従い、子供達だけでも無事であって欲しいと願い船に乗せた親の気持ちを考えると苦しくなる。
対馬丸事件「口外するな」 口止めで被害全容いまだ不明
22日で76年を迎えた対馬丸事件。その犠牲者数はいまなお特定できていない。戦中も、戦後も、詳しい実態調査がなされなかったためだ。当時は大本営発表の下、日本軍による箝口令(かんこうれい)さえ敷かれ、その記憶が、戦後も生存者らに重くのしかかってきた。
対馬丸記念館(那覇市)に保管されている資料には、漂流して救助された生存者が、憲兵らから「口外するな」などといわれた証言が複数残る。沖縄では撃沈のうわさも流れたが、憲兵に「流言飛語を流す非国民」として留置場に入れられた遺族もいた。疎開は地上戦を前に日本軍の食糧確保という目的もあり、さらに勧めるため秘匿されたともいわれる。
生存者の上原清さん(86)=うるま市=は6日間漂流し救助された後、警察から「対馬丸のことは誰にも話すな」と言われた。当時10歳。現在は体験談を修学旅行生らに語る上原さんだが、公に話せるようになったのは、事件から50年ほど経ってからだった。「悲惨な経験を口止めされた記憶が、ずっと心の傷のようになっていた。生き残ったことへの悔いや罪悪感もあった」
コロナ禍で講話の機会は減っているが、今はこう思う。「犠牲になった友人たちに対し、私ができるせめてもの弔い。機会ある限り、伝え続けていきたい」
(朝日新聞)
我が子を対馬丸に乗せて見送った親御さん達は、別の船で学童疎開した子供たちから無事であるとの手紙が届く中、『なぜ、自分らの子供達から手紙が来ないのか? ホントに無事なのか?』と、学校に詰めかけて問いただした……
先生たちは事実を知っていたかもしれない。
でも、それを親御さんに伝える事は無かったとのこと。
戦争を起こすのは権力者だが、犠牲になるのは弱い立場である国民。
まだ戦後70年余しか経ってないのに、また同じことを繰り返そうとする危険な空気がこの国には流れている。
私たちの大切なこの国を、このような愚か者たちの勝手にさせてはいけない。