山手線が昔「やまてせん」と呼ばれていたワケ 背後にあった数奇な歴史、沿線No.1のカレーライスを食べながら考える
2023/06/22 05:41
「YAMANOTE LINE」と表記されている山手線(画像:下関マグロ)
(Merkmal)
1980年代の思い出
筆者(下関マグロ、フリーライター)は大阪の大学を卒業して、1980年代半ばに就職のため上京した。最初に住んだ街は荻窪だった。
会社は乃木坂にあったため、最初は丸ノ内線で国会議事堂前駅まで行って、そこで千代田線に乗り換え通勤していた。
あるとき、上司が「国鉄を使うと便利」と教えてくれた。
総武線で新宿まで行ってみると、同じホームの向かい側に山手線の内回りがやって来た。そこで乗り換えて原宿まで行き、原宿から千代田線に乗り換えて会社に向かった。
総武線から山手線に同じホームで乗り換えられるのを知ったときは少し感動したが、朝の通勤時間帯はかなり混んでいて大変だった。
1909(明治42)年に測図された地図。渋谷駅周辺の様子。駅は1885年開業(画像:国土地理院)
「やまのて」から「やまて」へ
「国鉄を使うと便利」と教えてくれた上司は鹿児島県出身で、山手線を「やまのてせん」と呼んでいた。また別の東京出身の先輩は
「やまてせん」
と呼んでいた。
どっちが正しいのか、当時ずっとモヤモヤしていたが、のちにライターとなり山手線に関する原稿を書いたとき、正式名称が「やまのてせん」と知った。ただ、今でも「やまてせん」と呼ぶ人は少なくない。
山手線は1885(明治18)年、東海道本線と東北本線をバイパスするための路線として開業した。開業当時は旅客用ではなく「貨物路線」だった。
その後、常磐線をつなぐために田端まで延長され、このときに山手線(やまてせん)という名称になった。なぜなら、路線が通る場所が山の手エリアだったからだ。武蔵野台地の端部を境目に
・山の手:高台にある地域
・下町:低地にある地域
となっている定義は有名だろう。そして、1925年(大正14)年に環状運転が始まった。
外側を走るのが外回りで、内側を走るのが内回りだ(画像:下関マグロ)
「やまて」から「やまのて」へ
戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指示で、鉄道施設や道路標識にローマ字表記を併記することとなった。そのとき、国鉄内で使われていた略称「やまて」に引っ張られるかたちで、山手線は
「YAMATE=Loop=Line」
と併記された。
結果、1971(昭和46)年に路線名の読みを「やまてせん」から「やまのてせん」に統一するまで、人々の間では
「やまてせん」
が定着してしまった。
統一の1年前である1970年、国鉄は旅行キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」を始めた。その際、キャンペーンの一環で駅名や路線名にわかりやすくふりがなをふることとなった。そして翌1971年、山手線は「やまのてせん」となった。
国鉄が「やまのてせん」を復活させたのは、線名の由来や発祥を鑑みて「やまのてせん」が正しいと判断したからだった(イカロス出版『山手線のヒミツ―命名100周年!』より)。
森敦『月山・鳥海山』(画像:文芸春秋)
山手線の車内で作品を執筆した作家
小説家・志賀直哉(1883〜1971年)は1917(大正6)年、短編小説『城の崎にて』を発表した。高校生のときに教科書に載っていたので、筆者も読んだことがある。作品はこんな一文で始まる。
「山手線の電車に跳(は)ね飛ばされて怪我(けが)をした、その後(あと)養生に、一人で但馬の城崎(きのさき)温泉へ出掛けた」
志賀は私小説の大家であり、本作も自身の体験をもとに書かれている。実際に1913年、志賀は山手線との接触事故を起こしている。事故後すぐに病院に運ばれ、その後、城崎温泉へ出掛けた。
このように、接触事故をきっかけに小説を書いた作家もいるが、山手線の車内で作品を書いた作家もいる。それが森敦(1912〜1989年)だ。森は1974(昭和49)年に『月山』で芥川賞を受賞。そのときの記者会見で、作品は朝早く山手線の車内で書き続けたといった。
山手線に乗ると、ノートなどを広げて何かを書いている人を昔はよく見かけたが、今やノートパソコンでなにやらしきりに文字を打ち込んでいる人ばかりだ。今も昔も移動しながら文章を書く人は結構いるのかもしれない。筆者も試しにやってみたが、なかなか集中できなかった。
鶯谷駅(画像:下関マグロ)
乗降客が一番少ない駅
山手線で乗降客が一番多い駅は新宿駅である。これは誰でも知ってるだろう。次いで
・池袋駅
・東京駅
・品川駅
・渋谷駅
となっている。では、一番少ない駅はどこだろうか。答えは
「鶯谷駅」
である。
筆者はかつて新大久保駅と新宿駅の間に住んでいたが、山手線を使うとき、新宿駅より新大久保駅を選んでいた。なぜなら乗降客が少なく、ホームへの距離も新宿駅ほど長くなかったからだ。その後、新大久保駅も韓流ブームで人があふれかえり、信じられないほど混むようになった
その後、鶯谷駅が最寄りの台東区内のエリアに引っ越したが、とにかく乗降客が少なくて楽ちんだった。後で調べてみたら鶯谷が「一番少ない駅」と知り、納得した。
常磐軒の外観(画像:下関マグロ)
品川駅のカレーライス
新大久保駅時代、山手線に乗ってよくお昼ごはんを食べに出掛けた。山手線の駅は改札を出なくても、食事のできる場所がいろいろある。どこかの駅で食事をして、再び山手線に乗り新宿や高田馬場で降りたものだ。
食べ歩いた結果、筆者が行き着いたのは品川駅の山手線ホームにある
「常磐軒」
という立ち食いそば店だった。常磐軒でカレーライスを一度食べてからというもの、それ以降、ずっとカレーライスを注文している。特筆すべき味ではないが、意外とクセになるのだ。
ということで先日、山手線に久しぶりに乗って、カレーライスを食べに行くことにした。山手線には
・内回り
・外回り
があるが、どちらの方向が内回りで、どちらの方向が外回りだっけ……と悩む人は多いだろう。そんなときは
「外回り = 時計回り」
と覚えておけばいい。ちなみに駅の放送では
・男性の声:外回り
・女性の声:内回り
になっている。
カレーの食券(画像:下関マグロ)
たまらないカレーの香り
というわけで品川駅に到着。「あれれ、たしか昔はこのあたりにあったはずなのに……」と思っていたら、隣のホーム、つまり内回りのホームに常磐軒はあった。品川駅は以前、山手線の内回り・外回りが同じホームだったが、今は違うホームだ。
常磐軒に近づくとカレーのいい香りがする。そうそう、この香りを嗅ぐと
「今日はそばにするぞ」
と思っていたのに、やっぱりカレーを注文してしまうのだ。というわけで、食券を買って店内へ。
別の客のカレーがちょうど提供されるところだった。店員さんが
「コロッケカレーのお客さま〜」
と呼んでいる。ああ、コロッケカレーもいいんだよね。
ってことで、食券を渡してカレーが到着。福神漬けは好きなだけ入れられる。うれしいね。一口食べてみると、ああ、これこれ。意外に辛味があるし、食べごたえもある。うまいなぁ。
食器を返すとき、
「久しぶりに食べましたが、おいしかったです」
と伝えたら、店員さんは「またよろしくお願いします」と返してくれた。こういうやりとりもなんだかうれしい。
そして、再び山手線に乗って家路へ。カレーの辛味は意外と長く口のなかに残っていた。