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関東大震災 100年前の地図に記されていたことは?
100年前に発生した関東大震災。残されているのは写真や映像だけではありません。実は国がこれまで大事に保管してきた当時の地図があります。
地震発生直後、調査員が被災地を駆け回って書き記した被害の状況。どこに被害が集中し、どこは被害が少なかったのか。いまも同じ場所で生きる私たちに必要な対策は何かを教えてくれました。
目次
- 100年間、保管されてきた地図
- 東京・上野
- 東京・日本橋
- 東京・品川 世田谷
- 神奈川・横浜
- 神奈川・小田原
- ”秘図区域”千葉・君津 木更津
- 地図には「朝鮮人」に関する記述も デマ情報の危うさ
- 被災地図は今も
- 位置がひと目でわかる「被災地図」の重要性
100年間、保管されてきた地図
1923年9月1日に発生した関東大震災。ことしで100年となりますが、国がずっと保管してきた「古地図」があります。
「震災地応急測図原図」です。
この地図、単なる地図ではありません。
よく見ると、細かく手書きの文字があります。
「家屋全部倒壊」「鉄道線路崩壊」「死者27名 傷者27名 不明2名」
被災の状況が克明に記されていました。
保管していたのは日本の地図を作成し続けている国土地理院。取材したところ、未曽有の出来事だった関東大震災の被害を何とか把握しようと、当時の参謀本部陸地測量部が作成したものだということでした。
地震発生後の9月6日から15日まで、のべ94人の調査員を被災地に派遣。鉄道や車が使えず、東京駅から立川駅まで38キロもの道のりを、ひたすら徒歩で調査する人もいたといいます。
彼らが被害状況を書き留めたこの古地図、東京・神奈川・千葉を中心に63枚残されています。国土地理院は100年間、これらを大事に保管し続けてきたのです。
地図の中には、火事で焼けた範囲や全壊した家屋が集中している場所、土砂崩れが起きた地域など、被害の状況が詳しく書き込まれています。
私たちが暮らしている地域でどんな被害があったのかを知るため、古地図や内閣府の資料、専門家の話などをもとに、当時の首都圏の被害状況をひもとくことにしました。
東京・上野
これは上野周辺の地図。
地図には「帝大救護班」・東京帝国大学(現在の東京大学)の学生たちが救護団をつくって被災者の支援にあたったとされる場所や、「仮浅草郵便局 千人以上」(避難者の数とみられる)など、直後の避難者の状況が記されています。
また、被害の全体像もよく分かります。上野公園より南東側は「焼失区域」を示す、赤い斜線が記されている一方、上野公園を含む北西側はほとんど焼失しませんでした。
南東側にあたる東上野や浅草方面の下町は低い土地が広がっていて、木造の住宅が密集し、倒壊する家屋が多く出たとみられます。地震が起きたのが食事の準備で火を多く使う土曜の正午前だったことなどから、火が倒壊した家屋によって燃え広がったとされています。上野公園を含む台地は、家屋の倒壊も少なくほとんど延焼しなかったとみられます。
地震発生直後に撮影されたとみられる上野駅の写真です。
内閣府の資料によると、上野駅は地震で屋根が落ちるなどの被害にとどまったため、多くの避難者が駅周辺に押し寄せ、ホームや線路にまで人があふれたということです。しかし翌日の2日には、上野駅周辺にも火災が広がり、避難者は上野公園に逃げ込みました。
上野公園は火事から免れ、内閣府の資料によると都内で最も多いおよそ50万人が避難したということです。
いまでもおなじみの上野の西郷さん、体や立っている台のあたりをよく見ると…多くの張り紙が。
行方不明者を尋ねたり避難者の無事を知らせたりするといった伝言板代わりとなっていました。
現在の地図と比較して見てみると、焼失区域だった場所には今も多くの建物が密集していることが分かります。想定される「首都直下地震」でも火災の危険性が指摘されています。リスクや備えについて、いま一度考えてみてください。
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東京・日本橋
東京・日本橋周辺です。
東京駅から東側の下町地域は、多くの建物が倒壊、全焼しました。炎を含んだ竜巻状の渦が発生する「火災旋風」で、およそ3万8000人が亡くなったとされる「陸軍被服廠跡」も焼失区域に含まれています。ほとんどの道路が通れないほど深刻な状況だった中、調査員は自動車や荷馬車が通れる場所を見つけては記録に残したと思われます。
現在の地図と比較して見てみると、ここでも焼失区域だった場所に多くの建物が密集。「首都直下地震」でも火災旋風の危険性があります。過去の教訓を今の防災に生かす必要があります。
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東京・品川 世田谷
東京の品川や世田谷でも被害が大きい様子が分かります。火災の被害は少なかったものの、家屋が密集している地域で倒壊が起き、道路をふさいだといった記録もみられます。
現在との比較、品川周辺です。
埋め立てで沿岸部の地形は変わっていますが、品川から大井町にかけての鉄道沿線で倒壊家屋などが多かったことが分かります。
続いて世田谷周辺。
家屋倒壊などの被害は今のNHK放送センターの西側に集中しています。ただ、当時は住宅がまばらだった下北沢周辺などには現在は建物が密集していて、首都直下地震などでは被害が大きくなる可能性もあります。備えが必要です。
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神奈川・横浜
これは現在の横浜市みなとみらい周辺です。震源の相模湾に近く、大きな被害を受けました。内閣府の資料によりますと、横浜市の全壊棟数は約1万6000棟と東京市の1万2000棟を上回っていたということです。
「中村川、堀割川は共に両岸崩壊し道路亀裂を生じ」
「帷子川両岸は崩壊・・・略…家屋諸々倒壊し通行を妨害す」
特に大岡川と中村川・堀川に挟まれた埋立地では、全壊率が80%以上に達しました。建物の被害のほか、火災の発生場所も中心部に集中し、出火場所はおよそ290か所に及ぶとされています。
一方、焼失区域の中で、多くの人々が助かった場所もあります。
「横浜公園」です。
内閣府の資料では、およそ6万人が避難。横浜公園付近でも火災旋風が起こりましたが、多くの樹木が火の粉を遮ったこと、水道管が破裂し公園内に大きな水たまりができたことが幸いしたということです。
さらに、住宅の倒壊率が高く出火場所も多かったことから、ほとんどの避難者が着のみ着のままで逃げました。前述の東京・被服廠跡地では、家財道具を運び込んだ人が多かったため引火して延焼が拡大したのに比べ、横浜公園では多くの人が助かったと言われています。
現在との比較。当時と同じように建物が密集しています。
地震が起きて避難する際は、必要最低限、非常用持ち出し袋を持って避難場所にすぐ逃げる、渋滞を起こさないために車を使わない、などといった教訓にもつながっています。
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神奈川・小田原
神奈川県小田原市です。
特に土砂災害が多く、被害を伝える手書きの文字がびっしりと書き込まれています。
「山北、御殿場間墜道沈落の為め 是れか工事に約一ヶ月を要する見込」
「電車路の被害最も甚だしく 復旧の見込立たざる」
内閣府の資料によると、地震によって白糸川上流の大洞山が崩れて山津波が川を下ってきたため、斜面に沿って走る東海道本線(現在の御殿場線)は、至るところで寸断されました。
鉄道は避難者や物資を輸送するためにも重要な手段。調査員たちは、現場で対応にあたっている人たちに聞き取りを行いながら、復旧の見通しについても記録したとみられます。
現在のハザードマップと比較します。
当時と同じように、特に川沿いで土砂災害のリスクが多いことが分かります。地震の際には建物の倒壊、津波だけでなく、土砂災害に警戒が必要です。いまのうちにハザードマップを使って自分の住んでいる地域周辺の土砂災害のリスクを確認しておいてください。
「NHK全国ハザードマップ 」はこちら
”秘図区域”千葉・君津 木更津
土砂災害のリスクを示す古地図はほかにも。千葉県君津市、小糸川の下流地域の地図です。
小糸川右岸に広がる人見地区では、土砂崩れが起きて川の水をせき止めたという記録が残されています。今後増水した場合の危険性についても触れています。
応急対策は行ったものの、増水したら再び土砂が流れ出るおそれがあるといったリスクについても記録されています。内閣府の資料でも、二次災害を防ぐため、周西村は小糸川の対岸にある青堀村(現在の富津市)と共同で掘削工事を実施したと書かれています。
では現在はどうなっているか、ハザードマップで調べてみると…。
小糸川は今も同じような形で流れています。また、右岸にある人見地区の一部は土砂災害警戒区域(急傾斜地の崩壊)に指定されています。100年前に指摘されていたリスクが今も残っていました。
「秘図区域」の意味は
一方、この地図で気になるのが「秘図区域」という表現です。
「秘図」にはどういった意味があるのか、地図を保管する国土地理院の担当者に聞いてみました。
国土地理院の担当者
「当時、東京湾沿岸の地形図は軍事機密のために一般への発行が停止されていて、地図を持ち出すことができなかったんです(これを「秘図」という)。そのため調査員たちは、この秘図から海岸線や河川、主要道路や鉄道などを手書きで和紙に写し取った上で、そこに被害状況を書き込んでいったのだと思われます」
たしかに木更津周辺の地図は、地形も地名も手書きで書かれています。今では、いつでも誰でも地図を見られるのが当たり前(しかもスマートフォンで)ですが、当時、沿岸の地域では一般の人が自分が住んでいる場所の地図すら見ることができなかったのです。
地図には「朝鮮人」に関する記述も デマ情報の危うさ
地図に記されていたのは被害状況だけではありませんでした。
内閣府の資料(災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923 関東大震災)によると、当時「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などのデマが飛び交い、各地で自警団が結成されたということです。デマをうのみにした人が暴行を加えて殺害に至る痛ましい事件も発生しました。
デマやうわさは、現在の災害においても飛び交うことがあります。またSNSなどによって大きく拡散されてしまうこともあります。不確かな情報をうのみにしないこと、冷静に情報を確認すること。今にも続くとても重い教訓です。
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被災地図は今も
国土地理院では今も大きな災害が起きるたびに、被害の状況をまとめた地図を作り続けています。
これは2018年の西日本豪雨の際に、国土地理院が発生から数日で公開した浸水推定の地図です。上空のヘリコプターから撮影した画像や標高データ、SNSの情報をもとに、どのくらいの範囲で、どのくらいの深さで浸水被害が起きているかを示しています。このデータは、排水ポンプを設置する場所の選定や、どのくらいの家屋が浸水被害にあったかを把握するなどで、役立てられたといいます。
さらにこの地図をハザードマップと重ね合わせると、浸水が想定されていた範囲は実際に浸水した範囲とほぼ一致。災害が起きたあと、「想定外」と言われることがありますが、災害の多くは「事前に災害リスクが想定されていた範囲」で起きることが改めて広く認識されました。
国土地理院情報サービス課 石川弘美指導員
「災害において、被害の様相を地図に落とし込むことは非常に重要です。地形などと合わせて見ることで、どういった場所が災害に弱いのか、その場所が災害に弱い理由も理解することができ、次に起きる自然災害に対する備えにつなげられるのだと思います」
位置がひと目でわかる「被災地図」の重要性
これまで、関東大震災の写真や映像で被害の様子を見たことはありましたが、地図を見たのは初めてでした(筆者)。
調査員の目や耳を通して手書きで記された記録には、写真とは違った生々しさがありました。100年前の地図であっても、そこに記されている「上野駅」や「横浜市の市街地」などは今も私たちが生活している場所で、地図を見ると、まるでタイムスリップしたかのように、100年前に確かにここで被害が起きたのだと感じさせる資料でした。
いつ、どんな位置で災害が発生したのかを知り、その位置情報を最大のヒントにして次なる災害への対策を考える。被災地図は、写真や映像だけでは詳しく分からない、重要なことを教えてくれます。
いま、みなさんが住んでいる場所がどんな被害にあったのか、どういった災害が起きやすい地域なのか。関東大震災100年を機に、ぜひ多くの人に知ってもらいたいと思います。
展開センター 展開戦略グループ(防災・復興支援)清木まりあ