前回までのあらすじ:
オーストラリアミッションについて語ろうとしたひで氏は思いもよらず25年前の想い出を書き始めてしまうも「ま、いっか」となる。初めての外国、初めてのホームステイで英語も話せないひで氏はあるとき迎えを待つべき状況で何を思ったか自力でホストファミリーの家に帰ろうとして迷子になってしまう。。。
暑かったこと、そして道路が異様に広く車がものすごいスピードで行き交っていたことはよく憶えている。
ひで氏です。
リュックサックを背負ってとぼとぼと側道を歩き、当て所もなくひたすら進み続けた。不思議と引き返そうとは思わなかった。
結構な距離を歩いていたと思う。猛烈な勢いで車の影が後ろから迫ってきてドキーン!とした。
車は側道に乗り上げるようにして停まった。中から出て来たのはホストファミリーのお母さんだった。
車を降りるや否や彼女は大声を出しながら駆け寄ってきた。なぜこんな所を歩いているの、迎えにいくと言ったでしょう、車にひかれたらどうするの、というようなことを言っていたに違いない。
その剣幕から瞬時に、元の場所で待っていなくてはいけなかったのだと悟ったものの私ひで氏はソーリーということすらも出来ずポカンとして立ち尽くしていた。
雰囲気からして怒っているし悪い事をしたなあと思った瞬間、お母さんは私ひで氏をぐいと抱きしめてそのまま泣き出した。
お母さんは号泣したのだ。
人様の子供を預かっている立場や、おそらく彼らにしても初めてのホームステイ受け入れという状況で起きた事だったのを考えればお母さんがあれほど泣いたのも無理はないと思う。携帯も何もない時代であり、追いつくのに掛かった時間を考えると、おそらく考えられるルートを全部行ってなかなか見つからなかったのだろうと思う。
本当に悪いことをしたと思った。
しかしアルフの一件にも似て、この事もより一層互いの絆を深めることとなり、このあともファミリーと様々な体験を共有し、あっという間ではあったが恐ろしく濃密な二週間のホームステイが過ぎて行った。
最終日は朝から何とも言えないセンチメンタルな空気が家中を覆い、別れの地となる集合場所に着く頃にはみなグスングスンと車の中で泣いていた。
集合場所では初日に各家庭に散って行った、日本からの他の仲間も同様にそれぞれの別れを惜しんでいた。みなそれぞれにとても濃い二週間を過ごしたのであろう、今思い出してもこの光景はとても美しいものだった。
お母さんは私ひで氏に「あなたはもう私の息子なのよ」というようなことを言った。同い年のアントンは寂しさのあまりか涙目でうつむいてあまりお互い話せなかった。お父さんは明るく振舞っていたが、やはり目に涙を浮かべていた。
私ひで氏はこの二週間のこと、迷子事件も含めたくさんお世話になった感謝の気持ちを述べたいのに、サンキューとしか言うことがなく、感謝の気持ちを伝えるのにこの一言しか言えない自分が非常に恥ずかしくまた情けなかった。
この体験を経てから、帰国した私ひで氏は少し前から聴き始めていた洋楽にどっぷりとはまりこみ、英語への興味が異様なまでにエスカレートしていったのである。この時の別れ際に感じた悔しさがその原動力になっていたのは間違いない。
そんなことを思い出しながらシドニーへのフライトを順調に済ませた私ひで氏は、今回の25年ぶりにシドニーに降り立った。
いつしか連絡も途絶え今となってはどうにもならないが、ホストファミリーはおそらく今もこのオーストラリアに住んでいるであろう、そしてお母さんには特に言いたい、あの時の体験が元で、自分は英語にはまあ不自由は無くなりこうしてミッションのために来ることができたよ、もうお母さんを心配させて泣かせるようなことはしないよ、ただしオーストラリア英語には少し苦労はするが。。。と。
空港では現地のドライバーが迎えにくることになっていて、着いたら電話せよ、という指示をもらっていた。そして持っていた番号に電話をかけて、ドライバーが出た。
空港に着いたが、どこにいけばいい?と聞いた時、耳を疑った。
「☆%%$&%☆」
ひとっことも聞き取れない。
人によってはアクセントがすごいことは知っているが、こ、ここまでか。。。。!
お母さん、俺は嘘をついたよ。。。。
こうして25年ぶりのオーストラリア滞在が始まったのである。
オーストラリアミッションについて語ろうとしたひで氏は思いもよらず25年前の想い出を書き始めてしまうも「ま、いっか」となる。初めての外国、初めてのホームステイで英語も話せないひで氏はあるとき迎えを待つべき状況で何を思ったか自力でホストファミリーの家に帰ろうとして迷子になってしまう。。。
暑かったこと、そして道路が異様に広く車がものすごいスピードで行き交っていたことはよく憶えている。
ひで氏です。
リュックサックを背負ってとぼとぼと側道を歩き、当て所もなくひたすら進み続けた。不思議と引き返そうとは思わなかった。
結構な距離を歩いていたと思う。猛烈な勢いで車の影が後ろから迫ってきてドキーン!とした。
車は側道に乗り上げるようにして停まった。中から出て来たのはホストファミリーのお母さんだった。
車を降りるや否や彼女は大声を出しながら駆け寄ってきた。なぜこんな所を歩いているの、迎えにいくと言ったでしょう、車にひかれたらどうするの、というようなことを言っていたに違いない。
その剣幕から瞬時に、元の場所で待っていなくてはいけなかったのだと悟ったものの私ひで氏はソーリーということすらも出来ずポカンとして立ち尽くしていた。
雰囲気からして怒っているし悪い事をしたなあと思った瞬間、お母さんは私ひで氏をぐいと抱きしめてそのまま泣き出した。
お母さんは号泣したのだ。
人様の子供を預かっている立場や、おそらく彼らにしても初めてのホームステイ受け入れという状況で起きた事だったのを考えればお母さんがあれほど泣いたのも無理はないと思う。携帯も何もない時代であり、追いつくのに掛かった時間を考えると、おそらく考えられるルートを全部行ってなかなか見つからなかったのだろうと思う。
本当に悪いことをしたと思った。
しかしアルフの一件にも似て、この事もより一層互いの絆を深めることとなり、このあともファミリーと様々な体験を共有し、あっという間ではあったが恐ろしく濃密な二週間のホームステイが過ぎて行った。
最終日は朝から何とも言えないセンチメンタルな空気が家中を覆い、別れの地となる集合場所に着く頃にはみなグスングスンと車の中で泣いていた。
集合場所では初日に各家庭に散って行った、日本からの他の仲間も同様にそれぞれの別れを惜しんでいた。みなそれぞれにとても濃い二週間を過ごしたのであろう、今思い出してもこの光景はとても美しいものだった。
お母さんは私ひで氏に「あなたはもう私の息子なのよ」というようなことを言った。同い年のアントンは寂しさのあまりか涙目でうつむいてあまりお互い話せなかった。お父さんは明るく振舞っていたが、やはり目に涙を浮かべていた。
私ひで氏はこの二週間のこと、迷子事件も含めたくさんお世話になった感謝の気持ちを述べたいのに、サンキューとしか言うことがなく、感謝の気持ちを伝えるのにこの一言しか言えない自分が非常に恥ずかしくまた情けなかった。
この体験を経てから、帰国した私ひで氏は少し前から聴き始めていた洋楽にどっぷりとはまりこみ、英語への興味が異様なまでにエスカレートしていったのである。この時の別れ際に感じた悔しさがその原動力になっていたのは間違いない。
そんなことを思い出しながらシドニーへのフライトを順調に済ませた私ひで氏は、今回の25年ぶりにシドニーに降り立った。
いつしか連絡も途絶え今となってはどうにもならないが、ホストファミリーはおそらく今もこのオーストラリアに住んでいるであろう、そしてお母さんには特に言いたい、あの時の体験が元で、自分は英語にはまあ不自由は無くなりこうしてミッションのために来ることができたよ、もうお母さんを心配させて泣かせるようなことはしないよ、ただしオーストラリア英語には少し苦労はするが。。。と。
空港では現地のドライバーが迎えにくることになっていて、着いたら電話せよ、という指示をもらっていた。そして持っていた番号に電話をかけて、ドライバーが出た。
空港に着いたが、どこにいけばいい?と聞いた時、耳を疑った。
「☆%%$&%☆」
ひとっことも聞き取れない。
人によってはアクセントがすごいことは知っているが、こ、ここまでか。。。。!
お母さん、俺は嘘をついたよ。。。。
こうして25年ぶりのオーストラリア滞在が始まったのである。
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