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ルオー

2010年12月07日 05時32分23秒 | パソコン

 

 

                             ルオー

フランスの画家、版画家。ピカソ、マチスたちとともに20世紀を代表する画家の1人。5月27日、パリに家具職人の息子として生まれる。1885年からステンドグラス修複の工房に徒弟修業し、かたわら装飾美術学校の夜間コースに学ぶ。90年、絵画に専念することを決意し、エコール・デ・ボーザールのエリ・ドローネーの教室に学び、92年よりドローネーの後任ギュスターブ・モローの教えを受ける。モローの推拳でローマ賞を志すが二度にわたり失敗、学校をやめたあとリギュジェの修道院に入り、ここでユイスマンスたちと知り合い、内面的、宗教的な感情を養う。98年のモロ-没後に旧宅に設置されたモロー美術館の館長を務め、1903年のサロン・ドートンヌの創立に参加。このころからルオーは、修業時代の基本的にはアカデミックであった主題と画法を捨てる。この、第一次世界大戦前後に至る初期には、尊敬する師モローの作品の影響下に水彩を主とし、幅の広い動的な筆触、青を基調とする色彩に託して、社会的な不正義に対する怒りと悲しみを道化、娼婦(しょうふ)、裁判官、郊外の貧しい人々などの主題で描く。『鏡の前の娼婦』(1906・パリ国立近代美術館)などがその代表作。それからは筆触の強さ、色彩の表現性で、同時期のフォービスム、あるいはピカソの「青の時代」と類縁性をもつが、独自な精神性を備え、フランスにおける表現主義の表れとみることができる。

1917年、彼は画商ボラールと専属契約を結び、以後、『ミセレ-レ』(1917~27制作、1948刊)などの連作版画集に制作の大半の時間を費やしている。油彩を中心とするルオーの中期の制作ものころに始まる。版画技法の習熟から得た広い筆触による隈(くま)取り、透明感のある緑・青・褐色を厚い塗りする激しいマチエールなどの手法が用いられ、引き続き娼婦、道化、裁判官などの主題が描かれるが、初期における罪、絶望の表現とは異なり、静かな内面的世界が描かれる。とくに、30年代以降、キリスト教的なテーマが多くなり、それらが、しばしば道化、裁判官、郊外などのテーマと合体し、救済と恩寵(おんちょう)の世界へと転換してゆき、中世、ルネサンス以降、真の意味での宗教画家としてのルオーの世界が成立する。代表作は『べロニカ』(1945・パリ国立近代美術館)など。45年のフランス東部のアッシーの教会のためのステンドグラスなども注目される。

1952年ごろからの晩年の作品は、主題も多様化し、色彩も赤、黄色などが多くなり、マチエールの深さと相まって輝くようなきらめきを生んでいる。ポラールの死後、訴訟を起こして未完の旧作を取り戻し、48年にはそのうち315点を焼くという、ルオーの完全主義を物語ル事件もあった。58年2月13日パリの自邸に没し、国葬が行われた。

連作版画集『流星のサーカス』(1938)、『受難』(1939)などのほか、リトグラフ挿絵入りの『私的な思い出』(1925)、『独言』(1944)の著作もある。死後未完の作品約200点がパリ国立近代美術館に納められた。


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