(1887-1985)
ロシア出身のユダヤ系画家。7月7日ポーランドとの国境に近いロシアのビデブスク(現在はべラルーシ共和国の都市)のユダヤ人地区に生まれる。郷里の画塾で学んだのち、1907年ペテルブルクの帝室美術奨励学校に入学。翌年にはレオン・バクストの美術学校に入って、ヨーロッパ近代美術に関する知識を初めて得た。10年代議士ビナベルの援助でパリに出、14年まで滞在。その間、モンパルナスの通称「ラ・リュシュ」(蜂(はち)の巣)に住み、モディリアニ、ス-チン、ドローネーらを知り、さらには詩人のサンドラール、アポリネール、カニュドらと親交を結んだ。また11年のアンデパンダン展に初出品。14年にはベルリンのデア・シュトゥルム画廊で個展を開くためドイツを訪問、その足で故郷に戻るが、第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によってそままロシアにとどまる。翌15年にはベラ・ローゼンフェルトと結婚、これはシャガールの絵の重要な霊感源となる(ベラは44年に死亡)。17年に十月革命が起こると、ビデプスクの地区美術委員に任命され、さらに美術学校を創設する。マレービチやリシツキーを教授に招くが、やがてマレービチと意見を異にしたため、19年には職を辞してモスクワに移り、国立ユダヤ劇場の壁画装飾などで活躍した。22年にはベルリン、23年にはパリに戻る。
画商ボラールの依頼でゴーゴリの『死せる魂』の呪挿絵を手がけるなど、しだいにエコール・ド・パリの有力画家として注目されるとともに、その幻想的な作風はシュルレアリストから高く評価された。1941年、ニューヨーク近代美術館の招きで渡米、第二次大戦中はアメリカで亡命生活を送り、バレエの舞台装置や衣装を担当したりもした。47年、フランスに永住すべくふたたびパリに戻り、50年には南フランスのバンスに居を定める。52年、バランチーヌ・ブロドスキーと再婚。名声は世界的なものとなり、20世紀絵画を代表する巨匠として揺るぎない地位を獲得する。66年にはバンスを去ってサン・ポール・ド・バンスに移り、85年3月28日同地に没した。その制作活動の幅は広く、油彩、グワッシュをはじめ、版画、パリのオペラ座の天井画(1964)、エルサレムのハダッサ病院のシナゴーグのステンドグラス、彫刻、陶器、舞台装飾にまで及んでいる。
個人的でしばしば自伝的な内容、ロシアの郷愁、ユダヤ特有の伝統や象徴に対する敬愛の念など、彼の作品の基調は初期にすでに決定していたといってよい。パリでの色彩の発見、キュビスムの影響、サンドラールやアポリネールら前衛詩人との接触は彼の芸術の新たな滋養となった。色彩や形態において自然主義的な考えに束縛されず、イメージを詩的に構成する。キュビスムの影響はやがて色彩の横溢(おういつ)する、より自由なスタイルに道を譲リ、以後その幻想的、寓意(ぐうい)表現は大きな変化を被ることはない。ときにそのあまりに個人的な内容は、作品を単なる詩的な謎(なぞ)にもしかねないが、空想的表現と豊かな色彩は、見るものの心を自由に飛翔(ひしょう)させる不思議な魅力を秘めている。ニースにシャガール美術館があり、『聖書のメッセージ』の作品群(1969~73)を収めている。
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