(1836-1924)
近代の巨人的日本画家。天保(天保)7年12月19日、京都の法衣商十屋伝兵衛(富岡維釵(これのぶ))の次男として生まれる。名は初めしゅうすけのち道節、さらに百練と改める。字(あざな)は無倦(むけん)。号は初め裕軒(ゆうけん)のちに鉄斎、ほかに鉄崖(てつがい)、鉄道人がある。山本ばいえん(やまもとばいえん)に読み書きを習い、15歳のころ平田篤胤(ひらたあつたね)の門人大国隆正(おおくにたかまさ)に国学を、岩垣月洲(いわがきげっしゅう)に儒学を学ぶ。20歳のころには心性寺(しんしょうじ)に太田垣蓮月(おおたがきれんげつ)の学僕として住み込み、その薫陶を受けて春日潜庵(かすがせんあん)に陽明学を学び、梅田雲浜(うめだうんぴん)の講義を聴く。また頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、板倉槐堂(いたくらかいどう)、藤本鉄石(ふじもとてっせき)、山中信天翁(やまなかかしんてんおう)らと交際するなど、幕末動乱のなかで勤皇思想に傾倒し、国事に奔走する青年期を過ごした。維新後は、歴史、地誌、風俗を訪ねて各地を旅行したり、奈良石上神宮(いそのかみじんぐう)、和泉(いずみ)の大鳥神社の宮司となって神道復興に尽くすが、1881年(明治14)京都に帰り画業に専念、徐々に画名も高まっていった。
画(え)は19歳のころ大角南耕、窪田雪鷹に南画の手ほどきを受け、長崎旅行(1861)の際、木下逸雲(きのしたいつうん)や鉄翁に画法を問うたりもしたが、ほとんど独学である。南画や明清画(みんしんが)、大和絵(やまとえ)などの諸派の研究、また写生をその基礎に独自の画風をつくりあげたが、特色とするとこらは、生新な色彩感覚と気迫に満ちた自由放胆な水彩画風のものにあり、多く晩年に傑作を残している。活発になった明治画壇で、各種の展覧会や博覧会の審査員となるが、自身は南画協会、後素如雲社展(こうそじょうんしゃてん)以外は出品せず、自適の生活のちに在野の学者としての態度を貫いた。『万巻の書を読み、万里の道を行く」文人哲学を指標に博学多識、稀覯(きこう)の書の収集家としても聞こえた。1917年(大正6)に帝室技芸員、1919年帝国美術院会員に任ぜられている。大正13年12月31日京都に没。代表作に『富尽山全頂図(ふじさんぜんちょうず)』『安部仲磨明州望月図(あべのなかまろめいしゅうぼうげつず)』『旧蝦夷風俗図(きゅうえぞふうぞくず)』などがあり、『小黠大胆図(しょうかつだいたんず)』のような小品にも優れたものを残した。宝塚(たからづか)市の清荒神(きよしこうじん)内に鉄斎美術館がある。