広島に、左捲きではない「平和と安全を求める被爆者たちの会」 という会があるそうです。
その会の『私たちの平和宣言~』という文を、紹介して下さっている方「アリエスの雑記帳」さんから、拡散して下さいとのことなので。
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どうかご一読いただきまして、拡散していただければと思います。私個人はこの「平和宣言」こそが真であると考えています。(朱書き、太字は管理人が行いました)長くなりますが、ぜひぜひご一読を!!
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平成27年 『 私たちの平和宣言 ~占領後63年間の虚構を見据えて』
平成27年8月6日 広島
一瞬の熱線と爆風で斃された広島と長崎20数万の命、それに先立つ焼夷弾の火炎で一夜にして断たれた東京10万余の命、日本各地の空爆で殺害された幾10万の命。昭和20年8月に至る半年あまりの絨毯爆撃は、まさしく空前の戦争犯罪でした。その悪魔の所業から70年。二つの原爆から生き延びても、被災者は苦痛と恐怖に苛まれ続けました。不法な攻撃に晒された人々の心から、私たちの父母兄弟達の気持ちから、非難と嘆き、恨みと屈辱が消えることはないでしょう。
井伏鱒二は、当時の広島を『空鞘町あたりにくると火焔が街を一舐めにしたことがわかる。上半身だけ白骨になったもの、片手片足以外は白骨になったもの、・・・・千差万別の死体が散乱して異様な臭気を発している』1)と書きました。長崎では、『あるいは死にあるいは生死の境をさ迷いながらうめき苦しむ多くの人々、達者な者は重傷者の看護に一生懸命立ち働いている。780余人のうち達者な者も150人以上はいたのだが、10日ぐらい経ったころにはばたばたと死んで行き完全に生き残った者は20人ぐらいに過ぎなかった』2)と記録されています。その場を共にした皆様は、「あの醜悪な情景は、攻撃者が醜悪だった表れだ」と認識しておられたのです。『人々は阿鼻叫喚の気配を押さえ、死骸と並んで寝ることも恐れぬ忍耐と、極度の慎ましさ』3)を示しながらも、死にゆく人は「兵隊さん仇を取って下さい」と末期の言葉を残したのです。しかし9ヶ月後の長崎は、『立ち並ぶ復興住宅、人々で賑わう市場、倒壊した天主堂、頭に包帯を巻いて無心に遊ぶ少女の姿もある』4)と報道されています。皆様は、地獄絵の渦中にあって互いを助け、不屈の精神を持ち、秩序整然として、わずかな期間で復興の基礎を拓かれたのです。今日の繁栄を享受している私たちは、ここに皆様の思いと、艱難辛苦を胸に刻み、頭を垂れ、改めて深い感謝と心からの慰霊の誠を捧げます。本当にありがとうございました。
しかし、日本が言論の自由を奪われた7年間の占領で、戦争犯罪の真実は隠され、犠牲者の心の叫びは封じられ、開戦から原爆投下、敗戦までの真実は勝利者だけの正義の物語に置き換えられて行きました。非道な犯罪を隠滅して、日本だけを断罪しました。それから63年、世の中には「戦争を風化させるな!」の声が溢れています。しかし、戦争の真実とは何だったのでしょう?戦後70年とは、私達にとって本当に節目の年なのでしょうか?
昭和19年、英国の大臣は『米国が戦争に追い込まれたというのは甚だしい歴史歪曲である。米国があまりにひどく日本を挑発したので日本軍は真珠湾で米国をやむを得ず攻撃したのである』5)と述べました。開戦時に米国下院議員だったある人は『ルーズベルト大統領とコーデルハル国務長官は、日本に意図的最後通牒を送った。』6)と述べています。彼はまた、「日本には、自殺するか、降伏するか、戦うかの選択しかなかった。米国政権の戦争推進派は、日本軍の攻撃を知りながら真珠湾に警告しなかった事実が漏れると、対日最後通牒を始めとした種々の事実を隠すための大規模な作業を行った」6)とも記しています。大西洋横断飛行で知られるリンドバーグは、『12月8日;日本の奇襲攻撃は別に驚くに当たらぬ。我々は何週間にもわたり、彼らを戦争に駆り立てていたのだから』7)と日記に記しています。米国が「真珠湾の前から裏口からの参戦」をしていたことは、既に広く知られています。
清国末期のアジア大陸は、日本を含めた列強諸国の勢力拡大行動が交錯し、遅れて来た米国は「門戸開放・機会均等」を旗印にして、勢力争いに割り込んできたのです。特に、清国発祥の地である満州は「世界に類例のない極度に複雑な問題がある」8)といわれた地域でした。米国は、日露戦争後にロシアの利権を引き継いだ日本の南満州鉄道に露骨な食指を伸ばしましたが、交渉は決裂。これが日米の大戦の遠因となって行きました。第二次大戦中のポツダムの会談では、『トルーマンは成功確実になるまで核開発を進めてソ連抜きで日本を降伏させようと考え、チャーチルは早く原爆を使って欧州中心部へのソ連の進撃を阻止しようと思い、ソ連は漁夫の利を得るために米英が力を消耗してから参戦するつもりでした。結局米英は、ソ連勢力を阻止するために、日本を原爆の犠牲にした』9)のです。政治の延長としての戦争は、当事国が平和時以上に外交駆け引きを展開します。英国はドイツのポーランド侵攻を理由に参戦しながら、不利になったら米国に助けを求めました。
一方、ルーズベルト米国大統領は、「参戦しない」公約で当選していたので中立国の義務を放棄し、秘密裡に国民党を軍事支援して日本に先制攻撃をさせる策略を実行しました。これが先の大戦の姿です。ドイツと協定してポーランドを抹殺したソ連と妥協した英国も、分け前をぶら下げてソ連に日本との中立破棄を誘った米国も、その餌に食いついたソ連も、国家として普通の不誠実さがあっただけです。日本占領直後から、マッカーサーは一人の日本人も、一人の憲法学者も入れない配下の私的チームで「即席憲法案」を作りました。それはGHQの意のままに日本官僚により訳されました。
そしてその占領軍は、この憲法施行後に「交戦権の否定」を無視して日本人を朝鮮戦争に出撃させ、「言論・出版の自由」「検閲の禁止」「通信の秘密」も無視して、報道・出版の統制と検閲、私信の開封を行いました。「遡及処罰の禁止」は、東京、横浜裁判で完全に踏みにじられました。勝利者の正義の物語を広めたのも、日本だけを裁いたのも、この自ら作った憲法を破壊して行われたのです。この憲法は、最初から虚偽にまみれています。現代の東欧や東アジアの海などの国際秩序破壊への危険に対処する法案を、かくも汚れた憲法に違反する、というだけで、我が国の行くべき道は言わない憲法学者は、不誠実を通り越して滑稽です。
「被爆者代表」を僭称する人が首相に対して集団的自衛権を非難すれば中国は横暴な秩序破壊を止めるでしょうか?原爆が戦争を終わらせたから“被爆者に感謝しろ”という「はだしのゲン」は、明らかに日本各地の爆撃死者を冒涜しています。私たちは、63年間の勝利者の物語に幻惑されて、古文書と化した憲法に囚われた「反核平和70年の失敗」を克服しなければなりません。私たちの平和は先輩達との心の絆を回復し、国際政治のリアリズムをしっかり見据えて、独立国の名誉に賭けて自らを守る体制と覚悟を持つことに尽きるのです。過ちを繰り返させないために。
「平和と安全を求める被爆者たちの会」
引用文献一覧
1) 「黒い雨」井伏鱒二 新潮文庫
2) 「坂本町民原子爆弾殉難の碑のご案内」 平成18年8月坂本町山王自治会(長崎市)
3) 「海底のやうな光-原子爆弾の空襲に遭って」大田洋子 朝日新聞 昭和20年8月30日
4) 「原爆復興の長崎 息吹伝える;戦後70年記憶の中に」産経新聞 平成27年6月17日
5) 「忘れたことと 忘れさせられたこと」江藤淳 文春文庫
6) 「日米開戦の悲劇」ハミルトン・フィッシュ、岡崎久彦監訳 PHP文庫
7) 「リンドバーグ 第二次世界大戦日記」新庄哲夫訳 新潮社版
8) 「全文 リットン報告書」原文付属;渡部昇一 株式会社ビジネス社
9) 「HIROSHIMA NAGASAKI the real story of the Atomic bombings and t heir aftermath」 PAUL HAM transworldbooks.co. UK
――― 平成27年 私たちの平和宣言 ――― に関する補遺
序
今年の報道は「節目の戦後70年」が強調されているが私たちはその視点に違和感がある。占領軍が歴史の軸心を力で歪ませた7年間を単純合計した年数だからである。歪んだ軸に接ぎ木されての63年後が今年だと自覚すれば、幾分かは目の鱗は落ちる。よって今年は報道に流されないために、宣言文の含意をすこし掘りさげ記述して補遺とすることにした。
近現代史は、確定させる程にはまだ「枯れて」いないから、歪んだまま枯れる前に軸を正さねばならない。進行中の安全保障法制で憲法違反と反対する論者は歴史が確定的に「枯れた」と信じて異見を受け入れない不思議な「民主主義者」のように見える。私たちはこの方面からは侮蔑的に「歴史修正主義」と呼ばれる。しかし、昨年8月の朝日新聞記事取り消しのように通念は修正される。昭和30年代始めの千田夏光氏の新造語に始まる「従軍慰安婦物語」は通用しなくなった。歴史の軸をまっすぐに矯正するために私たちは今後も誇りをもって「歴史修正主義」を続ける。
1. 私たちの立場
私たちは、近代国家成立以降の我が国の諸行為のすべてが理に適った正当なものだ、という立場には立たない。と同時に諸外国に対しても公平に同じ対応を取る。すべての国家は相応の不誠実さを備えているのである。そして、それこそが国家関係を円滑にし、対立を極限に至る前に緩和し平衡を保ってきた面がある。一つの事例は“外交官に対して、受け入れ国はいつでも理由を示さずに追放することができる<ペルソナノングラータ>”(外交関係におけるウィーン条約)に顕れる。個人間では不可解な規定だろうが、理由を明示すべきだったら、国家の名誉は棄損され極限事態に陥るかも知れない。「理由は貴国の胸に聞け」あるいは「我が国のシグナルを見よ」の婉曲表現である。国家がそれなりに不誠実であることは歴史に揉まれた深い意味がある。ただし成熟した国家同士の洗練された手法であり、覇権争いでは騙し合いに繋がる。
2. 日本の悪魔化
先の大戦後の占領政策で日本は100%の悪になった。歴史でそんなことはあり得ないが、今日まで多くの日本人は信じている。しかしそれはパズルの重要なピースを変形した、「だまし絵」である。だから私たちは専門家達と共に、我が国の弁護を続けなければならない。日本人だから。
3. 原爆犠牲者とその他の爆撃犠牲者、そして「はだしのゲン」
日米戦の初期に連戦連敗の米国は志氣高揚のため、1942年、米空母から爆撃機B25、16機を発艦させ東京、名古屋、神戸などを無差別空襲して国民党の米空軍基地(シェーンノート部隊)に着陸した。これが日本空襲の始めである。これは後に比較して小規模だが、沖縄戦に先立つ1945年3月、334機からなるB29大型爆撃機は東京の住民地区を焼夷弾爆撃し、一夜で10万余を殺害した大規模攻撃である。酸欠に依るものだという。使用焼夷弾は日本家屋を効果的に燃焼させるべく開発されたものである。以後、民間人を標的にした主な空襲だけでも大阪、関東、京浜、横浜、名古屋、再度の東京、呉、神戸、福岡、富山……意外だが京都5回。それぞれB29、100~250機余の規模で縦横無尽の殺戮が繰り返された。既に、降伏講和の申し出のある中での攻撃が続いた。原爆攻撃が不要だったのは、後のアイゼンハワー大統領も明言した通りである。しかし、原爆投下まで戦争を引きずったのはトルーマンの対ソ思惑なのは明らかになってきた。そうであっても、原爆だけを特別視するのは公正か?それを戦争一般の「倫理問題」に矮小化した責任は占領政策に幻惑された日本にあり、反核団体同士の抗争にもある。被爆犠牲者の無念は切々と胸を割く。だが他の爆撃犠牲者の無念も同じなのだ。「はだしのゲン」が少年雑誌に排除され共産党と日教組の雑誌が掲載を継続して以降、「日本人は被爆者に感謝しろ!原爆のお蔭で戦争狂の天皇や資本家は命が惜しくてポツダム宣言で戦争をやめた」と書く書物は祖国と爆撃犠牲者を踏みにじっている。これを「平和教育書」とする限り、歴史軸の歪みは戻らないし「平和」も泣く。
4. 平和と安全について
安全保障を否定する現憲法は、日本を自殺へ導く可能性を持っている。これを「平和憲法」と呼び、浅薄な“キレイゴト”の「戦争の愚かさ、平和の尊さ」を鐘太鼓で囃しても、仲間内での一時の興奮以外には世界が唱和することはない。私たちはこの異質で異常な憲法を戴けば、世界がひれ伏すと考えるほど「大国主義」ではない。ハミルトン・フィッシュは前掲書で『ルーズベルトが「真珠湾攻撃が恥ずべき行いの日」と呼ぶのならば、ハルノートは「恥ずべき最後通牒」と呼ぶのが適切だ』と述べている。中国が今も清国時代同様の「元来清国政府と事を商定するは、かつて英行使サー・ハリー・パアクスが比喩したる如く無底の釣瓶を以て井水を汲むが如く何時もその効なく・・」(蹇蹇録<けんけんろく> 陸奥宗光著 岩波文庫)の性質が続いているのは、最近の行動からもわかる。今後も日本の「憲法平和主義」の欺瞞がわかる事実が出てくるだろう。だから私たちはそれらを観察し、各国それなりの不誠実さと行動を常にチェックし、勢力バランスを保つ不断の努力をする方策以外の「他策なかりしを信ぜんと欲す」(前掲書)るのであって、それだけが将来の可能性に繋がるのである。
============(以上、転載終わり)