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あみの3ブログ

00 今石動城@富山県小矢部市 令和二年(2020)5月8日 曲輪編

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【今石動城】

今石動城は「越登賀三州志」(えっとがさんしゅうし)等の文献によると、佐々成征と前田利家が戦をしていた天正13年(1585)に前田利家によってつくられ、現在の石川県津幡の城から移った前田秀継・利秀父子が城を守りました。同年8月の佐々成征の降伏後に、秀継は木舟城の城主となり城を中心に城下町をつくりましたが、11月に起きた大地震により木舟城がつぶれ、秀継は夫人とともに亡くなりました。利秀は翌年に今石動城に居城を移し、城下町を建設しました。しかし文禄2年(1593)に病没したため、翌年前田利長は当城を廃しました。史料により、築城から10年ほどで廃城になったと判断され、後の改修の可能性が低いことから、天正13年から10年間の時期における前田氏築城の山城の形を留めた典型的な例とみられます。
城は山頂部に位置するほぼ方形の主郭を中心として、四方に延びる尾根筋に、人工的な急斜面である切岸によって隔てた階段状の曲輪を設けた形をしています。特に主郭は大規模な切岸をめぐらし、周囲からそびえ立つ特徴的な景観を示しています。また、切岸の多用に対し、堀切などが余り用いられていない点も特徴です。
この城は、加越国境域における前田氏と佐々氏との戦いの中で、越中領内の前田氏の足掛かりとなる拠点として築かれ、前田氏による越中僚友の後には、その城下町(今石動町)に町奉行が置かれ、砺波地域の政治経済の要所として機能を長く果たしました。小矢部市教育委員会、、、現地説明板より



【当日の行程】



ナビ任せで進むと民家が点在する斜面に迷い込み、取りあえず「城山公園」入り口の階段下に車を停め徒歩で進むも「神武天皇像」辺りで広い駐車場と「城跡ここから1.7km」の看板を発見。(黒色の矢印)


道を間違えてることに気付き、一旦「石動中学校」まで戻り舗装道路でその駐車場まで迂回する。(赤と黄色の矢印)
そこから改めて城跡を目指して林道を進む。(赤色の矢印)


行き着いた先が「秩父宮記念碑」のある広場、しかしそこから「1.4km」の看板。
行き止まりに思えたが、よく見ると折れ曲がった細い林道があるので、この広場で方向転換しさらに進む。(赤色の矢印)


見晴らしの効く場所に到達、そこに「今石動城跡」の標識があった。


退避場所のような空き地に車を停め、城跡に至る仮設の階段を登る。
写真は階段を登ったところから林道と小矢部市内を展望。


【城跡と曲輪】
ここから5つの尾根を切り開いて造営したという「今石動城」の曲輪が点在する。
最初の尾根が「三の丸」


正直「三の丸」の標識や説明版などは無く、入り口にあった「縄張り図」の看板を頼りに推測するしかなかった。
その辺りからの展望
雑木林の切れ目から南東方向が望める。
奥は「南砺市」、「クロスランド小矢部のtower」「北陸新幹線の高架」が見える。


尾根筋には仮設の階段が取り付けてあり、山道も安心して歩ける。


三の丸、本丸辺りの切岸



◆「本丸」
三の丸から尾根伝いに頂上部と思われる削平地に到達、周囲が開けている。


ここには「本丸」の標識も設置されている。
先端部は崖となっている。


先端部からの展望。




本丸から一段下がったところに二の丸がある。


本丸からぐるりと回って下の尾根に向かう。


途中の本丸切岸
その下は腰曲輪や大手道があったのだろうか。




◆「二の丸」
先に二の丸の削平地が見える。


標識と先端部からの展望


振り返ると二の丸の背後に本丸の高台がそびえる


二の丸の裾野には切岸と、先ほど登ってきた林道が見える
この林道は二つの尾根とそこに広がる曲輪群、さらに「伝大手道」を横断して建設されているが車窓からそれらを確認するすべは無かった。


二の丸から城下を展望するが、その尾根筋に曲輪群があったという。


二の丸から本丸に戻る途中深い木立と雑草に阻まれ、別の尾根に広がる曲輪群を想像するは難しい。




◆「堀切跡」?
城跡入り口にある案内板によれば、すぐ近くに堀切跡があるはずだが素人の自分には看板がないと分からない。



◆帰路
今来た林道を戻るルートと、この先を進んで「市民プール」に抜けるルートが考えられたが、第5番目の尾根に広がる曲輪群を確かめたくて「市民プール」へ抜けるルートを選んだ。
下り勾配で曲がりくねってはいるが、やや広めで少し安心、とはいえ崖が続くので気は抜けない。
途中山側に休憩所のようなものや、参道を発見したが車を停める場所を見つけることができず、そのまま下山してしまったのが悔やまれる。
写真もありません。


◆「市民プール」
石動高等学校と併設されているのが市民プール。無事下山できて安堵。
そこで目にしたのが
「後谷砦」の標識

当砦は、石動小学校の500m西、後谷地区と上野本地区の山境で、標高150mの地点にあり砺波平野が展望でき、今石動城の出城であったと思える。
最上部は4、5段の層が見られ、一番上で東西31.5m南北で35.5mの平地がある。地元では「城ヶ峯」と言っている。
、、、おやべ型1%まちづくり事業





【今石動城】
《前田利家の越中支配の足掛かりの城》



名称(別名);いまいすぎじょう
所在地;富山県小矢部市城山町
城地種類;山城(187.8m/140m)
築城年代;天正13年(1586年)4月
廃城;文禄3年(1594年)
築城者;前田利家
主な城主;前田秀継、利秀
主な改修者;
文化財区分;小矢部市指定史跡
近年の主な復元等;
遺構、、、曲輪、土塁、空堀、堀切、切岸、大手道等

※出典、、、越中中世城郭図面集Ⅲ

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