弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

個人宗教3ー儀式

2018-01-10 14:04:04 | 思考
さて、私の神は何も命じないが、神から引き出せるものとして、

何事・何者にも患わされることなかれ。

このことは言える。

でも、今こう考えていても、惑わされるのは必然。
ならば、今の心境を思い出せるアイコン・刻印・儀式等が必要だろう。

今・ここ、というマインドフルネスの中心概念には疑義がある。
というのも、知覚からの入力と感覚への出力には厳密に言うとタイムラグがあるから。

別に偶像ではないが、偶像で思い出すことを禁じているわけではないので何か刻印やアイコンが必要だ。でも、ちょうど良いものが見当たらない。

となると、実利も兼ねたマインドフルネス瞑想が儀式として適当だろう。

究極のカルト宗教である個人宗教が通俗的な儀式を行うというのは何だかと思うが、それすら禁じていないので可とする。

つまり、内なるもの以外は、

anything goes

の精神。
全て他律的だといっても、敢えて苦痛を感じる必要はないし、苦痛を緩和する術があるにこしたことはない。

ということで、明日から何より優先して瞑想の時間を設けよう。
繰り返すが、それは命じられていないのだが・・

個人宗教2ー驚嘆

2018-01-10 13:33:38 | 思考
そう考えていくと、

世界とはエネルギーの発露である。

その命題が成り立つ。相対性理論を持ち出すまでもなく。
無から有は生まれないという前提に立つと、無神論というのはあり得ない。
そもそも無など知覚出来ない。
出来るのは無を知覚している(と錯覚している)自分を知覚することだけ。
だから、仏教というのも違う。マインドフルネスを否定するものではないが・・

無論、キリスト教やイスラム教、諸々全ての宗教が私にとっては欺瞞である。
ただ、私の宗教は何も攻撃しない。
現存する全ての受容。これは導き出せるからだ。

結局、今までの思索とメタ認知を突き詰めたものなのだと思う。
全てを究極的に客観視した末に、全て独我論的世界に取り込み主観的にみる。

先ほど、世界は驚嘆に満ちている。
と書いた。
ならば、自殺衝動そのものは否定しなくても、生き続けたらそれなりのものを世界は提供してくれる・・かもしれない。

まあ、ただ残る問題は私の消滅ー死のことだ。
私の神は死後の世間なんてものを持ち出さないのだから。

個人宗教

2018-01-10 13:15:03 | 思考
色々切羽詰まるなか、ふとした瞬間に神というものを感じた。

こう書くと怪しげだが、私の神は私だけにとってのもので、何らの規範も与えない。人格神ではない。
なので、権威も価値も意味すら与えない。
他人に説くものでもない、内なる神。信仰するというものでもない。

ただその時その時に見出し感じるもの。

というのも、私にとっての神は

無限遡及したあとの究極の単一必要原因

だからだ。

ほとんどは決定論に基づくものだが、それが量子力学の確率論でもいい。
確率論は自由意志を擁護しない。
全てのことがーこの私さえも私の与り知らぬものによって動かされている。
それは独我論を唱えようと同じこと。

こう考えていると少し楽になる。
なるようにしかならない。
そのために足掻こうが、それもそれ。

でも、少し考え方が変わったかもしれない。

世界はー私の世界はー私が知覚する森羅万象は等しく無価値であると同時に等しく価値があるものなのかもしれない。
万物への驚嘆そこにはある。

たとえまた自殺衝動に突き動かされることがあっても、それを否定するものでもない。
私の神は生すら命じない。
だから、自殺衝動すら尊重するべきなのかもしれない。
その時に足掻こうが、屈しようが関係ない。

ただこの穏やかな境地が続けばいいな。

I accept everything.