さて、私の神は何も命じないが、神から引き出せるものとして、
何事・何者にも患わされることなかれ。
このことは言える。
でも、今こう考えていても、惑わされるのは必然。
ならば、今の心境を思い出せるアイコン・刻印・儀式等が必要だろう。
今・ここ、というマインドフルネスの中心概念には疑義がある。
というのも、知覚からの入力と感覚への出力には厳密に言うとタイムラグがあるから。
別に偶像ではないが、偶像で思い出すことを禁じているわけではないので何か刻印やアイコンが必要だ。でも、ちょうど良いものが見当たらない。
となると、実利も兼ねたマインドフルネス瞑想が儀式として適当だろう。
究極のカルト宗教である個人宗教が通俗的な儀式を行うというのは何だかと思うが、それすら禁じていないので可とする。
つまり、内なるもの以外は、
anything goes
の精神。
全て他律的だといっても、敢えて苦痛を感じる必要はないし、苦痛を緩和する術があるにこしたことはない。
ということで、明日から何より優先して瞑想の時間を設けよう。
繰り返すが、それは命じられていないのだが・・
何事・何者にも患わされることなかれ。
このことは言える。
でも、今こう考えていても、惑わされるのは必然。
ならば、今の心境を思い出せるアイコン・刻印・儀式等が必要だろう。
今・ここ、というマインドフルネスの中心概念には疑義がある。
というのも、知覚からの入力と感覚への出力には厳密に言うとタイムラグがあるから。
別に偶像ではないが、偶像で思い出すことを禁じているわけではないので何か刻印やアイコンが必要だ。でも、ちょうど良いものが見当たらない。
となると、実利も兼ねたマインドフルネス瞑想が儀式として適当だろう。
究極のカルト宗教である個人宗教が通俗的な儀式を行うというのは何だかと思うが、それすら禁じていないので可とする。
つまり、内なるもの以外は、
anything goes
の精神。
全て他律的だといっても、敢えて苦痛を感じる必要はないし、苦痛を緩和する術があるにこしたことはない。
ということで、明日から何より優先して瞑想の時間を設けよう。
繰り返すが、それは命じられていないのだが・・