大事なことは物語ることではない。
今そこにあるもの-阻むもの或いは警告を突き詰めて考えることだ。
なるほど。
自分に残された特性、それと現在の諸々の状況を考えれば学者を目指すこと-少なくとも博士前期課程まで行くことは第一前提だ。
そして、興味の方向性や今までやってきたことを考えれば、心理学系統が望ましい。
ポストの関係と収入という意味では臨床心理が適しているだろう。
そこで、一つ矛盾が生じる。
資格を持っての副業を考えているのに、対人援助は避けて通りたいというものだ。
研究者になるには実践活動も必要なのに、だ。
勿論、学術振興で費用を貰って、という避け方もできるが、それでは本質的には避けられない。
対人援助をしたくない・できない・避けて通りたいのは何故か。
今までそれは暗黙の前提で動いてきたが、突き詰めたことはあったか。ちゃんと言葉にしてきたか。
1、対人援助には向いていないという考え。(適性の次元
これはあるだろう。
mECT後には、気分のアップダウンで他人に迷惑をかけることはほぼ無くなった。
ただ神経過敏なところ、関係念慮があるところ、対人不安があるところ、で対人業務は辛い。だが、そもそも、単純作業・肉体労働以外でこれらの負荷がかからないところがあるだろうか。単純作業にしたって、人前での粗大・微細運動は大の苦手ときているので、別の意味で負荷がかかる。
そして、細い神経はある程度薬でカバーできる。
完璧に負荷がかからない労働など有り得ない。(肉体系は腰痛という弱点も大きい)
つまるところ、向いている職業など無い。
敢えて言えば、対人関係が全くないところだと別の負荷がかかる-というのも、自分の中には親和欲求が存在するからだ。
黙々と物に相対したり、文章に向き合うだけの仕事は余計に向いてないということだ。
だから、この点は諸要素を鑑みると打ち消せる。
2、対人援助はできないという考え(可能性の次元
これは昔、症状が激しかった時には当てはまったが、今はそうも言えないだろう。
専門的な資質は向上させる意味合いが大きい。
むしろ、自信満々な方が援助職は怖い部分があると聞く。
症状が激しかった頃の、オフ会・自助会の経験は当てにならない。
受け手での経験も違う。(むしろ、患者としては自分は扱いやすい方だ)
デイケアだって、当事者同士という点で意味合いが違うし、あからさまに相手を不快にさせた経験はない。
これもやってみないと分からないので、打ち消せる。
あとは自分がどういうアプローチで対人援助をするのかによって、どういう領域でするのかによって、相手との関係性が変わってくるので、むしろそこの方が大事だろう。
(こちらを強く揺さぶってくる、境界性パーソナリティ障害、非行・触法少年などはあからさまに苦手だが、得意なな人の方が少ないだろう。)
3、対人援助はしたくないという考え。(願望の次元)
これはかなり複合的な考えになる。
というのも、助けになりたいと考えられる人も見てきたし、逆に関わりたくないという人も見てきたからだ。
そして、友人として、一人の親友の自殺を止められなかった(考えようによっては助長してしまった)という経験が根底にある。
相手も自分も症状を持っていて、自分の症状も混乱していたmECT前のことであり、その頃はメシア願望も若干あった。
それを抜かしても、あのような想いはもう二度としたくない。
それが親友でなくても、関係性を構築した相手なら誰でも死別という形での関係性の終焉はしたくない。
だが、これは心理臨床家なら誰でも-いや、真っ当な人間なら誰でも-持ち合わせるものなので、自分に特異なことではない。
死別という現象は自責だけでなく、「彼」への怒りなど様々なものがうごめいている。
彼にそれを選ばせてしまったのは、彼の主治医、カウンセラー、両親、兄弟、時代、社会・・複合的なものの責任なので、簡単に、割り切れるものではないかもしれない。
そして、「彼」が望もうが望むまいが、彼と同じような人間と出会った時に、関わりたくないという動機とともに、また-今度こそそういう人間に援助したいという動機も働くのかもしれない。(贖罪とかそういう意味では全くない)
話しを元に戻すが、そもそも、援助対象としての「参照枠」が今までにそういう系統で会った人、デイケアの人、自殺した彼、しかいない。
日常場面で見る人、SNSで交流した人などは参考にしてはいけない。
特に、mixiで見かける「メンヘラ」の人など、毒にしかならない。
総合すると、自分が研鑽を積んで、援助できる人は援助したいが、関わりたくない人もいる。
だが、これは甘えだろう。
援助職に限らず、そして資格職に限らず、相手にしたくない人など仕事をする上でごまんといるはずだ。
カウンセラーも聖人君子ではない。そのことは同期を見ても分かっているはず。
4、総括
結局、進まないと分からないというオチ。
一生、カウンセラーとして働くのは違うとするのは分かるが、対人援助をどれだけすべきか、どれだけ避けるべきかも分からない。
修士の実習の段階で本質的な対人援助などしないのだから、リスクはそこまで恐れても仕方ない。
結局、入ってみて判断、か。
(一度、修士を出て働けば、博士後期課程は別の大学院に行けるらしい。働いているうちに論文を出したりしていれば、「本当に臨床心理学の研究者」がベストかが分かるはず。そして、学者というのは固定の希望進路だが、臨床心理に限定する必要もない。
今そこにあるもの-阻むもの或いは警告を突き詰めて考えることだ。
なるほど。
自分に残された特性、それと現在の諸々の状況を考えれば学者を目指すこと-少なくとも博士前期課程まで行くことは第一前提だ。
そして、興味の方向性や今までやってきたことを考えれば、心理学系統が望ましい。
ポストの関係と収入という意味では臨床心理が適しているだろう。
そこで、一つ矛盾が生じる。
資格を持っての副業を考えているのに、対人援助は避けて通りたいというものだ。
研究者になるには実践活動も必要なのに、だ。
勿論、学術振興で費用を貰って、という避け方もできるが、それでは本質的には避けられない。
対人援助をしたくない・できない・避けて通りたいのは何故か。
今までそれは暗黙の前提で動いてきたが、突き詰めたことはあったか。ちゃんと言葉にしてきたか。
1、対人援助には向いていないという考え。(適性の次元
これはあるだろう。
mECT後には、気分のアップダウンで他人に迷惑をかけることはほぼ無くなった。
ただ神経過敏なところ、関係念慮があるところ、対人不安があるところ、で対人業務は辛い。だが、そもそも、単純作業・肉体労働以外でこれらの負荷がかからないところがあるだろうか。単純作業にしたって、人前での粗大・微細運動は大の苦手ときているので、別の意味で負荷がかかる。
そして、細い神経はある程度薬でカバーできる。
完璧に負荷がかからない労働など有り得ない。(肉体系は腰痛という弱点も大きい)
つまるところ、向いている職業など無い。
敢えて言えば、対人関係が全くないところだと別の負荷がかかる-というのも、自分の中には親和欲求が存在するからだ。
黙々と物に相対したり、文章に向き合うだけの仕事は余計に向いてないということだ。
だから、この点は諸要素を鑑みると打ち消せる。
2、対人援助はできないという考え(可能性の次元
これは昔、症状が激しかった時には当てはまったが、今はそうも言えないだろう。
専門的な資質は向上させる意味合いが大きい。
むしろ、自信満々な方が援助職は怖い部分があると聞く。
症状が激しかった頃の、オフ会・自助会の経験は当てにならない。
受け手での経験も違う。(むしろ、患者としては自分は扱いやすい方だ)
デイケアだって、当事者同士という点で意味合いが違うし、あからさまに相手を不快にさせた経験はない。
これもやってみないと分からないので、打ち消せる。
あとは自分がどういうアプローチで対人援助をするのかによって、どういう領域でするのかによって、相手との関係性が変わってくるので、むしろそこの方が大事だろう。
(こちらを強く揺さぶってくる、境界性パーソナリティ障害、非行・触法少年などはあからさまに苦手だが、得意なな人の方が少ないだろう。)
3、対人援助はしたくないという考え。(願望の次元)
これはかなり複合的な考えになる。
というのも、助けになりたいと考えられる人も見てきたし、逆に関わりたくないという人も見てきたからだ。
そして、友人として、一人の親友の自殺を止められなかった(考えようによっては助長してしまった)という経験が根底にある。
相手も自分も症状を持っていて、自分の症状も混乱していたmECT前のことであり、その頃はメシア願望も若干あった。
それを抜かしても、あのような想いはもう二度としたくない。
それが親友でなくても、関係性を構築した相手なら誰でも死別という形での関係性の終焉はしたくない。
だが、これは心理臨床家なら誰でも-いや、真っ当な人間なら誰でも-持ち合わせるものなので、自分に特異なことではない。
死別という現象は自責だけでなく、「彼」への怒りなど様々なものがうごめいている。
彼にそれを選ばせてしまったのは、彼の主治医、カウンセラー、両親、兄弟、時代、社会・・複合的なものの責任なので、簡単に、割り切れるものではないかもしれない。
そして、「彼」が望もうが望むまいが、彼と同じような人間と出会った時に、関わりたくないという動機とともに、また-今度こそそういう人間に援助したいという動機も働くのかもしれない。(贖罪とかそういう意味では全くない)
話しを元に戻すが、そもそも、援助対象としての「参照枠」が今までにそういう系統で会った人、デイケアの人、自殺した彼、しかいない。
日常場面で見る人、SNSで交流した人などは参考にしてはいけない。
特に、mixiで見かける「メンヘラ」の人など、毒にしかならない。
総合すると、自分が研鑽を積んで、援助できる人は援助したいが、関わりたくない人もいる。
だが、これは甘えだろう。
援助職に限らず、そして資格職に限らず、相手にしたくない人など仕事をする上でごまんといるはずだ。
カウンセラーも聖人君子ではない。そのことは同期を見ても分かっているはず。
4、総括
結局、進まないと分からないというオチ。
一生、カウンセラーとして働くのは違うとするのは分かるが、対人援助をどれだけすべきか、どれだけ避けるべきかも分からない。
修士の実習の段階で本質的な対人援助などしないのだから、リスクはそこまで恐れても仕方ない。
結局、入ってみて判断、か。
(一度、修士を出て働けば、博士後期課程は別の大学院に行けるらしい。働いているうちに論文を出したりしていれば、「本当に臨床心理学の研究者」がベストかが分かるはず。そして、学者というのは固定の希望進路だが、臨床心理に限定する必要もない。
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