まあ、色々哲学的な何かをかじって前回書いた独我論的な思考は生まれて。
確かに、私というのが特権的(死んだら世界を認識出来ないという意味合いで)である。
だが、それでも、いやそれとは無関係に、自分が何かに命を賭けるなら
特定の誰かの命
でしかあり得ないのではないか。
生物学的な意味合いだと、それは、自分の子であるべきだが、どうやら子孫を残せそうにはない。
それならどうだろう。
自分の何かを託せる誰か、というのを見つけなければならない。
もし大学教員になれれば教え子かもしれないし、臨床領域では幼いクライアントかもしれない。
決して博愛主義ではなく、空しさに抗いながら何かを創造出来る人。私を超えていってくれる一人、その人だろう。
分からない。教育の現場に限らないのかもしれないが、やはり、心理教育含めた教育が一番近いだろう。
そしてそれは、有償である必然性もない。むしろ、その人から何かを貰うのだから。
ボランティアの方がいいのかもな。有償であれば上限が見えてしまう。
少なくとも、この試験で命を賭けるなどバカらしい、ということだ。
まあ、やっぱり、自分の食べる分くらいは自分で稼がなきゃいけないのだが。
そこが一番のネック。
確かに、私というのが特権的(死んだら世界を認識出来ないという意味合いで)である。
だが、それでも、いやそれとは無関係に、自分が何かに命を賭けるなら
特定の誰かの命
でしかあり得ないのではないか。
生物学的な意味合いだと、それは、自分の子であるべきだが、どうやら子孫を残せそうにはない。
それならどうだろう。
自分の何かを託せる誰か、というのを見つけなければならない。
もし大学教員になれれば教え子かもしれないし、臨床領域では幼いクライアントかもしれない。
決して博愛主義ではなく、空しさに抗いながら何かを創造出来る人。私を超えていってくれる一人、その人だろう。
分からない。教育の現場に限らないのかもしれないが、やはり、心理教育含めた教育が一番近いだろう。
そしてそれは、有償である必然性もない。むしろ、その人から何かを貰うのだから。
ボランティアの方がいいのかもな。有償であれば上限が見えてしまう。
少なくとも、この試験で命を賭けるなどバカらしい、ということだ。
まあ、やっぱり、自分の食べる分くらいは自分で稼がなきゃいけないのだが。
そこが一番のネック。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます