弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

距離の神経症

2017-01-26 13:46:33 | 思考
そもそも、何故、抑うつが始まったかというと、それは前から書いている通り、被害関係念慮だ。
ただ、被害関係念慮の発症自体は色々な原因が考えられる。
・斜視が治ったことによって鏡を直視する機会が増え、自分の容姿に対する意識が高まったこと。そして、それが思春期という発達段階での自己意識のズレと時代社会が好ましいとする容姿へのズレを生み、醜形恐怖的なものに高まったこと。
醜形は思い込みで、美容院に行ったり服装を他人から真似ることで回避出来た。それを邪魔したのは生まれつきのシャイネス(社会不安)。そういうものを話しあう友人がいなかったという要因。元を辿れば、男子校という要因。

いずれにしても、醜形恐怖が被害関係念慮に一役買ったというのは否めない。
醜い→バカにされる。避けられる。
という流れだ。現に、クラスで「キモい」という単語が発せられる度に、自分のことではないかと疑っていた。確信ではなかったし、幻聴でもなかったから、統合失調症ではない。

更に悪化した要因は都心の塾に通い始めたことだ。
男子だけの塾なんて無いし、電車での長距離移動は人との接触を増やす。
醜いんじゃないか→(塾の座席は自由だから)隣に人(特に女の子)が座らないんじゃないか。
電車でも同じことが言えて、行き帰りの電車でも苦しんだ。

これは後に、ただ道ですれ違うだけ、お店でお釣りをもらうだけの時にも拡大し、今も続いている。

接触をゼロ距離と言えるなら、あらゆる距離が不安の種だ。

今のカウンセリング内容でいうと、接触を回避される→自尊心の低下という問題だし、仮に距離を空けられたとして原因帰属の問題(何故、相手はそういう行動に出たのか)でもある。

一度、関係念慮を研究計画にしたのもあるが、治療法というのは分からない。

ともあれ、父親の死や受験失敗、予備校不適応、大学不適応というのは、確かに抑うつ状態を高め持続させてしまったが、根本は関係念慮か社会不安にある。
だが、抑うつが主訴になって久しく、関係念慮も治っていないという現状。

厳しいなあ。


離別の勧め?-25年の愛着と6年の冷酷さ

2017-01-24 22:22:03 | 思考
家族ほど冷徹になれる関係もないのかもしれない。
世の中のニュースを見ても。

・・・もともと、目立った反抗期も無く、母親とは仲が良かった。
20の時に通院を開始して、大学生活で一人暮らしをしても、実家に帰った時は心配してくれたし優しかった。
だが、25で実家に戻ってからは話が違う。
良くなったり悪くなったりで、これからの進路も決まらずバイトも定まって出来ないでいた。
次第に、母親は自分の話を聞かなくなり、会話も減った。
病気のこと、病院のこと、薬のことを話そうとしても、ほとんど耳を傾けない。
しまいには、母親が、
一生治らない、だの、一生このまま
だの言う。

去年、入院した時にはまた少し優しくなったが、一年経ってまた元に戻った。

それでも、25年分の愛着があるからか、家で同じ居間にいれば話題を探そうとするが口を開けば、大体、険悪な感じで終わる。

思えば、父が肝臓病でイライラしていた時も、しょっちゅう父親と喧嘩をしていた。
でも、父が体調不良のために職場近くに単身赴任してから、仲は改善していた。

結局、近ければ近いほど相手のことを思いやらなくなり、相手は自分の辛さを主張して関係は悪くなる。
本当の意味での理想は病人は近くから支えて欲しいものだが、私の母親とはそんな人格しか持っていないのかもしれない。
そして、そうであれば、相手に愛着とは逆の嫌悪の感情を持つべきだし、何ら期待してはいけないのかもしれない。
それでも、扶養家族に入って実家に住んでいる以上、顔色を窺わねばならないという情けなさ。
まるで、実家にいることが回復の基盤になっていない。姉と仲が悪いことも含めて。

・・・先日会った友人に、(年的にも)
障害年金を含めた公的な扶助をもらってでも、実家を出るべきだ。
と言われた。
全くもってその通りなのかもしれない。家にいても全く落ち着くことが出来ない。姉との仲の悪さもあいまって。
自分のぶんの炊事洗濯買い物はしているので、一人暮らしでも金銭以外の問題は基本的に生じない。
だが、その他の不便な点を補い、部屋の広さや快適さという物理的意味、、そして自分でも呆れるがまだ残っている愛着で、何だかんだで実家を選んでしまっている。

それでも、何かを変えるべきなのかもしれない。
一緒にいるとお互いに腐る、そんな理想像とは真逆の家族ならば。

抑うつリアリズム

2017-01-19 14:33:37 | 思考
うつ(状態)にある人は、認知療法で言う自動思考に「認知の歪み」がある人も多い。
否定的な自動思考には種類があるが、例えば、「全か無」(二者択一的思考)や、過度の一般化、過大評価、先読みの誤り、などがある。

これらを、ワークシートに書いたりして修正していくのが認知療法の一手法だ。

そして、これらの思考とは逆のポジティブな思考は心身共の健康に寄与するとの報告もある。

ところが、だ。
「抑うつリアリズム」といって、(抑)うつ状態にある人の方が、「正確な」認知をしているとの研究もある。すなわち、普通の人のポジティブな思考にはバイアスがかかっており、むしろ、「悲観的な思考の方が現実、未来を正しく反映しているというものだ。
この観点からすると、上述の先読みの誤りも、「誤り」でも何でもなく将来の可能性についてより正しく(或いは妥当に)予想しているといえる。

ポジティブ幻想といった用語もある。

これこそ、二者択一的思考になってしまうが、
心身共に健康だが不正確な認知をするか、不健康だが正しい認知をするか。
では、どちらを選ぶのがいいのだろうか。
ポジティブな思考が自分だけに及ぶものであれば、不正確な認知をしていても構わないのであるが、思考は行動となり他者に影響を及ぼすことも少なくない。認知と感情、行動は切っても切り離せない関係にあり、社会で生きる以上、楽観視というのは常に危険性を孕むものである。

程度問題と言われればそれまでだし、うつと近接する不安(※不安も認知療法の対象)で動けないとなると本末転倒なのだが、「先読み」、それをどこまで確信して動くのか、それが問題だ。

個人的には、悲観的行動主義者、こうなりたいと思っている。だが、将来を悲観的に見積もってそれを回避する、そういうマイナスをゼロにするための行動というのは、動機づけも難しいし、回避できた時も正の報酬というよりは安堵の感情しかないので難しいものだ。


まだ寒かった日のこと。そんな初春の日のこと。~断片的なECTの記録

2017-01-17 01:53:42 | 思考
・・・斜視の手術。
それが初めての入院、手術だった。
でも、3日ほどだったのでよく覚えていない。
何より15の頃だったから。
でも、「背が高いからモテるでしょ?」
とか、前時代的なことを言われ、
「いえ、男子校ですので」
と、言葉を濁したことは何故か記憶にある。
大部屋だった。患者は目の手術に限らないようだった。

・・・入院している父親の見舞い。
それもよく覚えていない。
これも、16~17の頃だったから。
最後の見舞いは息を引き取る前日だったから。

・・・去年の入院と手術。
でも、2週間に一度は実家に帰っていた。
それでも、このゲームをやって、ろくに入院の記録を記していなかったことを思い出す。

国立の病院。
最初は、日帰りで手術を受けられる所を主治医に紹介してもらったけれども、少し信用が置けない所だったので、結局、一番権威ある病院に。
最初に驚いたのは、院内に喫煙施設無し。敷地内全面禁煙。敷地外に出れるのは一日一回。(手術当日は無理)。事前の申請が必要。敷地内には検査の予定などが無ければ、ナースステーションに声をかけて何回か出ることが出来た。
近くにはスーパーがあって、そこに喫煙所があって、たまに敷地内とうそをついてその喫煙所で吸った。
でも、勿論、タバコなど院内に持ち込めなかったので、一日数本で廃棄もバカらしく、隠し場所を決めた。。監視カメラっぽいところを避けて、枯葉に埋めて。

外出申請も場所と目的が必要で、最寄駅の喫茶店で、購買・喫茶と書き、時間を潰した。

食事はまずかったけど、売店での購入も近くでのスーパーでの購入も自由だった。
最初の頃は夜中にカップラーメンを食べていた。
共用の給湯器で温かった。

手首の白い認識票は外泊の時にしか外せなく、でも、冬だったし隠せた。
バーコードが付いていて、手術や検査の時の電子管理に利用された。

窓は数センチしか空かない。
開放病棟で自殺の危険性はないと思うのだが。
でも、同じフロアに「処置室」という閉鎖っぽい病室があった。
あれは何だったのだろう。。。

精神科だからか、全室個室。
テレビは最初、間違って手配された部屋は無料。
後に移った部屋は、例のごとくテレビカードだったが、いちども観たことはない。
最初の部屋は最上級の部屋で、シャワーがついていたが、後の部屋には無く、共同のシャワールーム。勿論、時間は決められていた。
共同のテレビの前にはクッションがあり、たまにDVDを他の患者が観ていた。
漫画も少し置いてあった。
利用したことはない。

食事は個室ではなく、いっせい食事のスペースで。
男は男のテーブル。
でも、どんな人が同じテーブルだったのかを思い出せない。
病棟全体が中高年の人がほとんどだった。
あのフロアで手術を何回も受けていた人はほとんど見ない。
たまに、ストレッチャーで運ばれていくのを見た。

検査の日は、床に貼ってあるテープと渡された地図を標に自分一人で向かう。

病院内はもっと深刻そうな神経の病・障害の人も多くて気が滅入る。
此処は、自分がいるにふさわしいのかと。

手術。
朝、術前に点滴を刺しに来る。
手の甲なので痛い。
朝食は抜き。
院内外出は点滴の30分前なら可能だったので、手術の日だけは早起きして、気持ちの整理に。もう死んでもいいように。(全身麻酔自体に死亡のリスクはごく僅かある。)
戻ってきたら、点滴。
看護師長が直々にやってくれた。優しい中年男性だった。
点滴後、しばらくして移動。最初はストレッチャーだったらしいが、図体がでかいので、初回時にせん妄を起こして落ちそうになったらしく、2回目からベッドごと移動。
フロアから外れて、リノリウムの緑色の床の通路を運ばれてゆく。。
おそらく、階も移動したのだろう。待機室に入れられて、前の手術患者の意識が戻るまで待つ。
何故か、前の患者の名前を今でも覚えている。数回、いや、人によっては十数回受けるもので、何回か聴いているうちに覚えたのだろう。
どんな人かは知らない。
「Kさん、Kさん、聞こえますか?」
と。全身麻酔から解けて、すぐに返事できるものなのだろうか。。
ともかく、その後は自分の出番だ。
手術室内ではアメリカのポップス(ゴスペル?)が、リラックスのためか流れている。
それが妙に癪に障った。
(ほとんどあり得ないけど)手術室で死ぬ人は、こんな音楽とともに死ぬのかと。
もっと、劇的な死に方を望む。聴くなら、チャイコの交響曲第6番第一楽章。
ともかく、そんなこんなでジェルを塗り電極を頭や額に貼っていく。
主治医が穏やかな声で安心させるような言葉をつぶやく。
麻酔医も同じ感じ。
だが、「その時」は急にやってくる。初回時は何が起こるのかも分からない。

左手、沁みますからね~

・・・

ブラックアウト。
自分の病室にいる。
喉がカラカラだ。全身が痛いが、声をあげられるほど意識が明瞭ではない。
しばらくすると、ようやく水を飲ましてくれる。
嗚呼、こんなに美味しい水は、未だかつてあっただろうか。
記憶の確認か、自分の名前などを言った気もするが、定かではない。
時間はそんなに経ってないようだと、時計で確認する。
ワープ。この言葉がふさわしい。

昼食がやけに美味しく感じる。
外も観てみたいが、手術の日は院内にも出れないようだ。。。

最初の手術の日は、普段来ない母親もやってきた。
物語のように、
私はダレ?ここはドコ?
にはならない。だが、初回の手術の日でそんなに覚えていることもない。

見舞いに来たのは、母と友人一人。
その友人も格別仲は良くなかったし、手術日程は終えた退院間際のことだった。

・・そんなものなのだろう。
病院で最期を迎えられるようなそんな人生は送れないと思う。寂しく朽ちてゆくのだ。
そういえば、周りの患者さんの見舞客もフロア内では見たことはない・・・
精神科・・・それはそういう所なのかもしれない。

全ての始まり

2017-01-15 00:00:57 | 思考
友人と飲んだ帰りに被害関係念慮が悪化して(最近セレネース飲んでいなかったから)、よりによってこの日に、と思ってしまった。
現役のセンター試験でこけた。
1浪のセンター試験は緊張に何とか打ち勝てたけど、二次試験前一週間、自宅でこもって勉強していたら、本番当日に関係念慮めいた対人緊張とプレッシャーでこけた。

あの時、デパスを飲めていたら、東大の二次試験も模擬試験と同じくらいには出来て、受かっていただろう。
そして、東大に受かっていたら、関係念慮から始まった抑うつも収まり、今のような状況にはならなかった。

先ほど、ようやくデパスが効いて落ち着いた。

二浪の頃の診断名、神経衰弱。セレネース服用で落ち着く。
大学一年で、関係念慮をメジャートランキライザーで抑えることを仙台の主治医に反対され、抗不安薬だけに。それでも抑えきれず、度々悪化し、OD連発。
その時の主治医が今までの主治医では一番好きだけど、対処として間違っていた。
少し思考が鈍るくらいなら、セレネースを服用し続ければ、よかっただけで、その後のうつ状態の悪化と、果ては双極性障害という意味不明な診断には至らなかった。

その当時の主治医の言葉。
薬にコントロールされるのでなく、薬を利用しなさい。

さて、その主治医は在学中に亡くなり、関係念慮の原因となった男子校へ行かせた父も亡くなっている。
どこに何をぶつけたらいいか、全ての「たられば」と共に途方に暮れる。