思いつくまま、気の向くままの連載記事。
第7回『中国・四国編』です。
≪選抜出場校 思い出編7≫
中国代表 倉敷商 (岡山) 4度目(8年ぶり)
夏10度出場 甲子園通算8勝13敗
8年ぶりで甲子園の舞台に戻ってくる倉敷商。「倉商」といえば古くは星野仙一を生んだ学校として、県内、中国地方では名門校として名をはせていましたが、全国に目を移すと関西や岡山東商、岡山南などが大舞台でも印象に残る活躍をしたのと比較して、ほとんど印象には残っていないというのがファンの本音ではないでしょうか。過去春夏13度の出場で8勝。過半数に当たる8回が初戦敗退で、わずかに89年と12年に8強進出したのが印象に残っているぐらいでしょうか。個人的には、89年の1回戦で選抜優勝の東邦を破った試合と、12年のエース西投手の”魔球”、そして長身の岡選手(現ロッテ)が印象に残っています。岡山のチームは、今一つチームとしての色がはっきりとしていないというイメージがあり、「このチームはこういう特徴を持ったチーム」というのが難しい地域でもあります。完全なる県内の王者が存在せず、長いこと群雄割拠の状態が続いているというのも一因かもしれません。倉敷商といえば・・・・・・とワタシも頭をひねっていましたが、う~んと考え込んでしまいました。それでも古くから数多の名選手を生み出した土壌であり、「晴れの国」ならではのよくグラウンドで鍛えられた選手たちが多いのも特徴だと思います。今年も倉敷商がどんな足跡を残すのか?それはわかりませんが、県民を熱狂の渦に巻き込む戦いを望んでいます。
中国代表 鳥取城北 (鳥取) 2度目(8年ぶり)
夏5度出場 甲子園通算1勝6敗
わずか20数校の参加校ながら、熱い高校野球好きのファンが多い鳥取県。長らく公立王国としてなおはせていましたが、近年ぐんぐん力を伸ばしてきた”私学”が鳥取城北。全国の強豪と同じように選手を広域から集めて、素晴らしい環境のもと強化するというメソッドは変わらず、その実力はグイグイと県内のトップに躍り出てきました。09年夏に初めて夏の甲子園の土を踏むと、秋の中国地区を制した12年のチームは春夏連続の甲子園出場を飾り、強豪の地位を獲得しました。その後も常に県内トップの戦力を有し続け、13,15,18年とすべての学年が一度は甲子園の土を踏むという流れてこの選抜も出場を勝ち取りました。これからは全国レベルでどのように戦っていくのかが課題。やはり県内、そして中国地区では強豪との対戦経験が限られるので、そのあたりが課題となってくるでしょう。近いようで関西にも山陽にも四国にも遠い鳥取県という土地柄。その中でいかに全国レベルのチームを作っていくのか?一足飛びには飛躍は期待できませんので、地道な努力が望まれると思います。かつて鳥取県には、物議こそかもしたものの、まぎれもない強豪校として君臨した倉吉北というチームがありました(もちろん今でもあります)。彼らの好守、特に打線の破壊力は一級品で、全国のチームに驚きを与える存在でした。鳥取城北は、そういうタイプのチームを志向していくのがいいのでは・・・・・なんて、外野からは思いますけどね。苦労も多いであろう寮生活の学校で、きらりと光るチームワークなんか見せてくれると、ズキンと来てしまうんですよね、ファンとしては。
中国代表 広島新庄(広島) 2回目(2年ぶり)
夏2回出場 甲子園通算 4勝3敗
広陵、広島商が君臨する広島県で、最近活躍が目立つのがこの広島新庄。最初にこの学校が強烈に印象付けられたのは、何と言っても13年夏の広島県大会決勝。今でも語り草になっている、瀬戸内との決勝戦です。瀬戸内・山岡(オリックス)と広島新庄・田口(巨人)の小柄なエース同士の投げ合いがとんでもないことになって、延長15回0-0の引き分け再試合となりました。両者一歩も引かずというとその通りなのですが、試合内容は瀬戸内が一方的に押す展開で、広島新庄はこの試合、15イニングでわずか1安打に抑えられましたが、エース田口が13安打を浴びながらも粘りに粘って相手に点を与えなかったという試合でした。野球とは面白いもので、翌日の引き分け再試合、もちろん両エースが投げ合ったのですが、今度は前日とは違って広島新庄が押す展開になりましたが、試合は1-0で瀬戸内が勝利して甲子園を手繰り寄せたという一戦となりました。その結果を聞き、映像を見たりして、「広島新庄というチーム、甲子園で見てみたいな」とワタシは思ったのでした。しかしその願いはあっという間にかなえられ、翌14年の選抜に広島新庄は甲子園春夏通じて初登場。エース左腕は、なんと前年の夏、甲子園への道を阻まれた相手エースと同じ名前の山岡投手。この山岡投手も、なかなかの好投手でした。見事に初戦を2安打完封勝ちすると、2回戦ではなんと、またも15回引き分け再試合の1-1という激闘。山岡投手は15回を完投して、翌日もマウンドに登って完投。結果的にこの試合などが、のちに高校野球にタイブレーク制と投球制限を導入する契機になった試合でした。(この試合+次の試合が連続で引き分け再試合になったことから) そして翌年、その次の年とエース堀(日ハム)で夏に連続出場。広島新庄の名前は、甲子園に轟きわたりました。過去3度の甲子園で、すべて初戦を飾っているというのは見事なこと。そして、広島新庄といえば田口、山岡、堀と”左腕のエースの系譜”がどうしても頭に浮かんでしまいます。小柄ながらコントロールがよく、球の切れが抜群というエースたち。まさに「甲子園で勝てるピッチング」を体得しているエースたちです。ワタシが一番印象に残っている試合は、何と言っても15年の3回戦、木更津総合との試合ですね。広島新庄・堀と木更津総合・早川の左腕同士の投げ合いは試合時間わずか80分。その中にいろいろな要素がぎゅっと詰まった、まさに「極上の投手戦」でした。本当に、「しびれる試合」というのはまさにこのことだなあ・・・・・・・なんて思いながらの観戦でしたね。いつも甲子園で見事な戦いを見せてくれる広島新庄。さすがは広商で一世を風靡した迫田監督が指揮を執る学校ですね。迫田兄弟の甲子園采配も残り少なくなってきたと思いますので、今年の広島新庄、楽しみに見させてもらいたいと思っています。
四国代表 明徳義塾(高知) 19度目(2年ぶり)
夏20度出場 優勝1回 甲子園通算 59勝37敗
明徳の選抜出場も、19度目になりました。夏も20度の出場。その過去38回の甲子園、昭和の時代が5回、令和の時代は1回(昨夏)で、その他の32回の出場はいずれも平成の時代に成し遂げられています。まさに平成という時代を最初から最後まで駆け抜けたという意味では、智辯和歌山とともに「平成の高校野球を代表する学校」と言えるでしょうね。(ちなみに智辯和歌山は37回の出場中、平成では34回の出場。) 智辯和歌山がその平成時代に63勝を挙げているのと比較して、明徳義塾は50勝。まあ勝利数は遜色ないと思いますが、大きく水をあけられているのがその優勝/準優勝の回数。智辯和歌山が優勝3回、準優勝4回と7回もの決勝進出を果たしているのと比較して、明徳義塾は優勝1回、準優勝なしと、まだ決勝という晴れ舞台に進んだのはたったの1度。明徳は「甲子園での初戦は負けない」という神話をずっと保ち続けてきましたが、反対に「頂点まで勝ち進んでも行かない」チームであるという事も言えます。このあたりの違い、県大会では出場校も少ない地区に属するという非常に似通った環境である両校の間で、お互いに名将である高嶋監督、馬渕監督はどんな話をしているのでしょうか。円熟味を増したというよりも、還暦を超えてもうあまり監督としての時間も潤沢に残されているわけではない馬渕監督が、どのように今後チーム作りしていくのか、注目しているところです。
智辯和歌山は高嶋監督が引退し、中谷監督が就任。そして昨夏、その中谷智弁と明徳の直接対決も行われ、明徳はまさかの逆転負けを喫しました。負けん気の強さでは並ぶものなしの馬渕監督、強烈にリベンジを誓っていることでしょう。その他でも、大阪桐蔭の西谷監督や星稜、そして県岐阜商の鍛治舎監督など、因縁のある「倒したい相手」はてんこ盛りの今大会。馬渕采配は冴えわたるのか、それとも。。。。
前回の記事 ⇒
今年も明徳義塾が、甲子園に出場してきました。00年代に入って、聖光学院、智弁和歌山、大阪桐蔭らと並んでこの明徳も、「甲子園出場が年中行事」の常連校の地位は揺らいではいません。この明徳、智将・馬淵監督に率いられ、37回も甲子園に出場しながら、いまだに決勝に進出したのは優勝した02年夏だけというのに、驚きを感じるファンも多いと思います。大阪桐蔭や智辯和歌山などと比較して、『最上位までは駆け上がれない』という歴史に、ベテラン馬淵監督は今年こそ終止符を打とうと目論んでいます。そのために明治神宮大会を、明徳には珍しくシャカリキに取りに来てそして秋に一足早く「全国制覇」を成し遂げました。今年の明徳、ちょっと今までとは、気合の入り方が違います。本気の本気で、紫紺の旗を獲りに来る春となることでしょう。さて、その思い出については、昨年、一昨年の記事を書きにコピーしましたので、ご覧ください。
その前年の記事;(コピー)
昨年は『お約束』の春夏連続出場を成し遂げた明徳義塾。まさに甲子園は『年中行事』の一つでしすが、春は何もできないまま初戦敗退し、甲子園の初戦は絶対に落とさないという『明徳神話にも陰りが出てきたか』と噂されました。しかし夏は見事に立ち直って4強に進出。明徳健在を力強く印象付けました。そのいい流れを汲んだ今年のチームは、馬淵監督をして『今年のチームで全国制覇を狙う』と宣言するほど自信を持ったチームのようです。総合力が高い明徳は、県内、そして四国内でライバルチームが少ないという事情もあるものの、およそ30年にわたって『3年明けたことがない』ぐらい頻繁に甲子園へ足跡を刻み続けてきています。しかし四国はかつての”四国四商”が元気だったころと比べて、明らかに地盤沈下を起こしている印象がぬぐえません。『四国の代表は、どこでも甲子園の優勝を狙える』と言われたのは今や昔。昨年は高松商が久しぶりに甲子園を沸かせてオールドファンが歓喜に包まれましたが、今のところ四国勢で『間違いなく全国制覇を狙える』というチームは、残念ながらこの明徳をおいてほかにはないという状況が続いています。それだけに明徳にかかる期待も大きいのではないかと思われます。今年馬淵監督をして『優勝が狙える』と豪語するこの明徳のチームが、全国の強豪に対してどんな戦いをするのか、全国のファンはかたずをのんで見守っている・・・・・という感じですね。
そのまた前年の記事;
高校野球ファンにはおなじみの明徳義塾。良しにつけ悪しきにつけ、本当に話題になるチームですね。『何もない』須崎半島の山の中にでんと校舎を構え、まさに『虎の穴』のようにスポーツ選手を鍛え上げる、特徴を持ち筋の通った学校です。野球のみならず、ゴルフ、相撲、サッカーなどなど、有名スポーツ選手の輩出は引きも切らず、『こんな田舎から、こんなすごい選手が』と驚きを持って、世間からは見られています。高校野球の世界でこの明徳の名を初めて耳にしたのは1979年(昭和54年)。それまで3強(高知商・高知・土佐)が覇権を独占していた高知の高校野球界に、『何やら新興の私立で、野球にえらい力を入れる学校ができるらしい』との噂が。それが明徳でした。初代監督に高知商の監督などを歴任した老将・松田監督を据え、素晴らしいグラウンドと全寮制の施設を兼ね備えた『本気で甲子園を狙うチーム作り』が話題になりました。翌80年、春の選抜で中西投手を擁する高知商が悲願の全国制覇を達成。高知はまさに『高知商の時代』が到来していましたが、この『最も強かった高知商』に果敢に挑んでいったのが明徳でした。のちにプロ入りする河野(元日ハム・巨人)をエースに、4番には横田(元ロッテ)を据えた『自称実力全国一』のチームは、高知商を土俵際寸前まで追い込んで、まざまざとその力を見せつけたものでした。そして57年春には初めての甲子園へ。これが明徳の甲子園デビューなのですが、その時がまたすごかった。前年の明治神宮大会で早実を力で破って見せて初出場ながら優勝候補の一角に堂々と名を連ねていた明徳。初戦では瀬田工(滋賀)を難なく退け、2回戦で”優勝候補筆頭”の箕島と対戦しました。この勝負が延長14回の逆転に次ぐ逆転の、『選抜名勝負』のひとつに数えられる激闘。明徳はこの試合で、松田監督の試合後の『武蔵が小次郎に敗れたわい』という名言とともに、甲子園のファンに『明徳強し』を印象付けたのでした。翌58年センバツでは、準決勝で夏春連覇を狙う【最強池田】に堂々と挑んで、8回までリードという試合を繰り広げました。最後は逆転負けしましたが、『明徳はさすがに高知でもまれた強豪だ』と、誰もが思ったものでした。ちなみにこの時期の蔦監督率いる【最強池田】も、明徳のことは大の苦手。蔦監督をして、『1県1代表になっていて本当によかった。もし昔みたいに、高知と南四国大会をやらなければならなかったら、明徳がいるけん、甲子園にも出れんかもしれん』
と言わしめるほど、あの池田にとっても、明徳は手ごわい存在でした。そこからしばらくの『昭和時代』の明徳が第1期だとすると、馬渕監督の『平成時代』が第2期ですね。厳密にいうと、甲子園の試合直前に出場を辞退した05年までが第2期、そこからの苦難を経て現在までが第3期だと思いますね。第2期の始まりは、物議をかもした星稜・松井の5打席連続敬遠という『負の遺産』を背負っての船出でしたが、その後はほとんど高知県で『明徳1強』の時代を築き、98年からは夏の選手権に7年連続出場という偉業も成し遂げました。(当時戦後最長の連続出場記録)その間、02年には悲願の全国制覇も達成。『明徳義塾』という名前は、高校球界の1大ブランドとして、君臨していきましたね。昨夏ついに止まったものの、【初戦勝利】の記録をずっと続けたのは、本当にすごいことです。何しろ、32度も甲子園に出場して、初戦で敗れたのがたったの3度。ものすごい記録です。しかし、それだけ初戦を勝ち上がりながら、まだ決勝には1度しか進出できていないというところに、明徳の隠れた『弱み』の部分がありますね。データを元に、試合を完ぺきなまでに組み立てられる初戦には無類の強さを発揮するものの、どんどん違う相手が出てくる上位まで勝ち進み、その試合を勝ちきるというたくましさを持ったチームが、なかなか出来上がっていないようにも見えます。そのあたりの課題に、ベテランの域に入ってきた馬渕監督、どんな答えを出していくのでしょうか。いよいよあの若かった馬渕監督も還暦を迎え、明徳の≪第3期黄金時代≫を築くのか?注目されます。
四国代表 尽誠学園(香川) 7度目(18年ぶり)
夏6度出場 甲子園通算17勝17敗
尽誠学園といえば、昭和50年代の終わりから四国の高校野球を席巻した強豪というイメージが強い学校です。しかしながら、21世紀を迎えてからはその勢いはぱったりと途絶え、甲子園で最後に勝利したのは02年夏という事で、もう18年の未勝利という事になっています。香川県の高校野球は、21世紀に入ってからずっと低迷を続けていましたが、近年高松商が華麗なる復活を遂げ、その勢いに乗ってまた盛り返し始めました。尽誠学園も、いい流れに乗って伝統のユニフォームで暴れまわってほしいものです。さて、尽誠学園が初めて甲子園に姿を現したのは83年春の選抜。その年の四国は、水野・江上を擁して夏春夏の3連覇を狙った「絶対王者」の池田が君臨、そしてそれを新興強豪校の明徳が追いつめるというまことに持ってレベルの高かった年。その中で尽誠学園は、鍛えられた攻守で初顔ながら強豪に割って入るほどの実力を備えた好チームでした。初出場の悲しさで力を発揮できず初戦で敗れ去りましたが、その3年後の86年、今度は夏に姿を現した尽誠学園のマウンドには、あの巨漢エース伊良部が君臨していました。2年生のエース伊良部、巨漢ではありましたがまださほど目立つ球は投げておらず初戦で打ち込まれ敗退。しかしその翌年、伊良部は恐ろしいばかりの投手になって甲子園に再登場しました。87年の夏の甲子園初戦。2年連続で登場した尽誠学園は、初戦で前年4強入りした浦和学院と激突します。強打で鳴らす浦和学院の4番は、この年の甲子園の最大の目玉であった鈴木健。通算ホームランをかなりの本数まで伸ばし、甲子園でも期待されていました。そしてエースも前年「魔球」シンカーで好投、また好投とチームを4強に導いた谷口が残っており、ワタシはこの試合「伊良部がどんなにすごくても、浦学が負けるわけはない」と思っていました。が・・・、伊良部の剛速球はまさに規格外。しかもそれが、鈴木健の時には「マジに投げる」感じで、さしもの鈴木健もまったくその速球に合わせることが出来ずに振り遅れ、わずかにシングルヒット1本に抑えられ、気分良く打席に立った伊良部が自ら逆転ホームランを叩き込んで、優勝候補ともいわれた浦和学院は初戦で沈没したのでした。その凄い投球は伊良部の株を一気に上げたのでしたが、伊良部はプロ野球でもMLBでも、後々までそうであったように『すごい気分屋』の一面を甲子園でもまざまざと見せて、次の試合初出場の常総学院にボコボコにされて甲子園を去って行ったのでした。これを見たワタシの感想は、「浦学にあれだけの投球で勝っておいて、常総にボコボコかよ!ありえね~」というもの。本当に驚きました。(まあ、その後常総は完全に波に乗って、沖水の上原も、中京の木村も、東亜の川島も、その後プロで活躍する本格派を、ことごとく打ち崩すんですけどね。) そんな尽誠学園でしたが、次に登場した時はいいチームでしたね。エースが宮地(西武)、主軸に谷(オリックス)というメンバーで勝ち進んで、4強に進出しました。一番覚えているのは、準決勝の仙台育英戦の終盤の攻防。9回1点ビハインドの尽誠学園は、最後の最後に仙台育英の大越を捉えて同点に追いつきました。そして10回表の守備。1死で2塁にランナーを置いて、仙台育英の確か大越が放ったセンター前ヒット。それを突っ込んで取ったセンター、ホームに矢のような送球を返して間一髪アウト!!!! 見事な送球でした。NHKの解説では、「彼がセンターに入っている場合、香川県内では鉄砲肩だというのが知られているので、2塁ランナーはまずワンヒットでホームに突っ込んでは来ない、仙台育英は知らなかったのでしょう」という事でした。 しかし野球の神様というのは悪戯好き。2死2塁になって、次のバッターもまた、センターへゴロのヒットを放ちました。仙台育英のセカンドランナー、ひるむことなくホームへ突っ込んでくると、今度はセンターからの送球はそれて、仙台育英に決勝の1点が入ったのでした。劇的と言えば劇的、そんなこれもまた高校野球史を飾る1ページというシーンでしたね。 また、3年後の92年には、春の選抜で優勝した帝京と初戦で激突。「高校野球史上に残る強打線」と言われた帝京打線を、長身のエース渡辺が内角を強気につく投球でなんと完封。1-0と下して4強に進出したという事もありました。80年代終盤から90年代にかけての尽誠学園は、まさに強豪のオーラをまとい、甲子園では何かをしてくれるチームでしたね。久しぶりの出場で、その当時の戦いぶりを感じさせてくれると嬉しいですね。明徳、尽誠そろい踏みの選抜なんて、ちょっとグッとくるものがある、ワタシです。
(つづく)