◇もっとも印象に残った球児
39.鳥取
坂本 昇 投手 倉吉北 1980年 夏 1981年 春
甲子園での戦績
80年春 1回戦 〇 4-5 東海大三(長野)
夏 1回戦 ● 1-2 習志野(千葉)
81年春 1回戦 〇 5-4 鳴門商(徳島)
2回戦 〇 3-2 中京商(岐阜)
準々決勝 〇 2-1 高松商(香川)
準決勝 ● 0-4 PL学園(大阪)
昔から【文武両道】で鳴る鳥取県の高校野球。
米子東、鳥取西の両雄が覇権を争い、近年では境、倉吉東や八頭なのがそこに絡んできています。
ほぼ『公立王国』と言えるその鳥取にあって、
一時期異彩を放って存在していたのが倉吉北でした。
まず倉吉北は、
78年の選手権に登場。(その前に75年のセンバツもありますが、割愛。)
全くの無名でしたが、
松本投手の力投などで優勝候補の早実を撃破。
2回戦でも準優勝した高知商に7点のリードをされながら、
一気に6点を返すというようなセンセーショナルな戦いぶりでした。
そして翌年の春。
今度はエース矢田投手を擁して選抜で8強に進出。
この時まで、
世間の評価は『さわやか倉吉北旋風!』
倉吉北という名前からも、
世間の人たちは鳥取のこじんまりとした県立校が”頑張って”甲子園で成果を上げたという評価でした。
しかし・・・・。
連続出場を果たした翌年ぐらいから、
なんだか雲行きは怪しくなってきました。
『実は倉吉北は私立校で、選手は全員が大阪からの”野球留学生”で、全寮制の学校。』
ということがささやかれ始め、
『なんだか、試合マナーが悪い』
ということも言われ始めました。
そこに登場したのが、
坂本投手を中心としたこの年の倉吉北。
チーム打率4割に近い強力打線を武器に3度目のセンバツを射止めた彼らは、
確かになかなかのチーム力を持っていました。
鳥取県では久々の4強進出という偉業も成し遂げました。
が・・・・・
世間の注目は、
そんなことには集まりませんでした。
世間が注目したのは、
倉吉北ナインの、
あまりに『高校野球らしくない』ガラの悪さ。
なんとベンチ入り選手のほぼすべてが頭に剃り込み、眉剃りという、
『その当時の不良(当時ヤンキーという呼び名はなし)の定番』
というたたずまいをしていたばかりか、
グラウンド上での狼藉、ガン付け、
インタビューでの「だるそうな」受け答え・・・・。
まさに『ルーキーズ』を地で行くチームだということを、
満天下にさらしたのです。
ワタシはかえって、
『なんじゃ、このチーム』
と面白がってみていたのですが、
世間はお得意の【掌返し】の技を発揮して、
このチームを叩くは叩くは。
4強進出という偉業は、
ほとんど記憶されない代わりに、
『とんでもないチーム、とんでもない学校』
という評価が、
定着してしまいました。
特に【野球留学の走り】だったこともあり、
『野球さえやっていれば、あとは何をやってもいいのか』
ということに批判が集まり、
前年に出場した江戸川学園取手(茨城)と並び、
【(高校野球界の)悪の権化】
のような言われ方でしたね。
*ちなみに江戸川学園(現校名)は、その後さっさと高校野球の強化からは”足を洗い”、すっかり進学校に変貌を遂げています。『学校の名前を世に出すという役割は終えたから』という、学校側の見解でしたね。なんだか寂しい気持ちがしたものです。
その後倉吉北は、
後に南海にドラ1で指名され入団した加藤伸一を擁するものの、
度重なる暴力事件→出場辞退で、
結局加藤の代は公式戦に出ることもなくひっそりと引退していったということを記憶しています。
いろいろと問題が多く、
その巣窟とされた倉吉北は、
その後90年代に2度、00年代に2度甲子園へコマを進めるものの、
結局往年の力強い野球は見せられず4連敗。
今に至っています。
あのころ、
本当に倉吉北はよくたたかれましたが、
今にして思えば、
今の野球留学、特待生制度等の走りであった倉吉北は、
一歩時代の先を行っていたんだと思います。
しかしながら、
高校野球というものの注目度が今と比べて桁違いに高かった時代。
そして高野連と朝日新聞が、
過度に『汗と涙』『さわやかなチーム』が高校野球であるということを標榜して、
『外れたものは許さない』
という空気を作り上げていたという時代背景が、
倉吉北には重くのしかかっていってしまったのではないかと思っています。
しかし、
最初に出てきて強豪の早実を破った78年のチーム。
その全力プレーが全国の高校野球ファンを魅了した時もあったことは、
記憶にとどめておくべきだと思います。