このニュースを聞いた時、
一瞬我が目を疑い、
思わず『えっ』と声を上げてしまいました。
【済美・上甲監督が死去】
衝撃のニュースは、
すぐに高校野球界を駆け巡りました。
今年の愛媛県大会で、
『高校球界最速』の安楽投手を擁して甲子園を狙ったものの望みはかなわず、
最後の試合後に自分の前で「すみません」と頭を下げる安楽の頭を、
ポンポンと叩き、撫ぜ、
『よくやった』
と言っていた上甲監督。
その姿を見たのが最後となってしまいました。
あっという間の出来事で、
頭の中が整理できていない状況です。
まさに高校野球に殉じ、
最後まで指揮を執り続けた末の壮絶な最期だったと思います。
その情熱に、
頭が下がるばかりです。
この生粋の高校野球指揮官に、
深く頭を垂れます。
お疲れ様でした。
春2度の全国制覇、
夏1度の準優勝。
素晴らしい実績を残した上甲野球は、
40を超えてから花開きました。
初めての甲子園は、
1987年(昭和62年)の事。
この頃の愛媛県は、
松山商がまだまだ力を誇っていた時代。
前年の86年には、
夏の甲子園で久々に決勝まで進出して、
『松山商復活』
を強く印象付けていました。
その松山商を破り甲子園に出てきたこの新鋭校。
実はこの時までワタシは全くこの学校について知らず、
上甲監督という名前を聞いたのも最初でした。
『学校の先生ではない監督らしい』
印象に残ったのは、
そのことぐらい。
初戦であっという間に敗れ去った宇和島東はチームとしては、
ほとんど印象に残るということはありませんでした。
翌年の選抜大会。
前年夏に続いて夏春連続出場を果たした宇和島東は、
その存在感を見せつけてくれました。
前年秋の四国大会では4強。
いわゆる『滑り込み』での出場であったことや、
頼りになるエースが存在しなかったことから、
前評判は全く高くなかった宇和島東。
しかし、
この学校がその名を全国の高校野球ファンに知られるまで、
そう長くはかかりませんでした。
衝撃を与えたのは2回戦。
対戦相手は、
この年の優勝候補に名前を連ねていた大阪の近大付属。
初戦の2回戦で野洲に9-0と完勝して3回戦に進出してきた宇和島東は、
この3回戦で大爆発。
近大付属の好投手・笹垣をメッタ打ち。
16安打の乱れ打ちで9-3とまたも完勝。
この試合が終わってから、
この宇和島東につけられた異名が『牛鬼打線』。
何とも恐ろしい名称は、
元祖<黒潮打線>の箕島などに勝るとも劣らない迫力を持っていました。
そしてその宇和島東のベンチでは、
名将である箕島・尾藤監督ばりにニコニコと笑みを絶やさず選手たちを迎え采配を獲る、
上甲監督の姿があったのです。
宇和島東は、
準々決勝では大激戦の末、
相手・宇部商のお株を奪う逆転サヨナラで激勝。
準決勝では、
桐蔭学園と延長17回の大激闘を演じました。
激闘を潜り抜けて初出場で決勝まで進出した宇和島東は、
決勝でも『圧倒的不利』の予想を見事覆して、
東邦に6-0と快勝。
初出場初優勝という金字塔を打ち立てるとともに、
上甲監督の笑みを絶やさない采配ぶりとその猛烈な打線を作り上げてきたチーム作りが、
大いに話題になりました。
40を超えてから、
大輪の遅咲きの花を咲かせた監督さんでした。
ところで話は多少横にそれますが、
昭和50年代あたりから60年代までの間、
『四国の無名の初出場校』
は本当にこのセンバツで輝かしい実績を残してくれました。
まずは昭和49年の池田高校。
センバツ初出場で、
おまけに部員は11人しかいないところからついた異名が『イレブン池田』。
蔦監督に率いられたこのチーム、
『試合できるんかいな』
という外野の声をよそに勢いに乗って勝ち進み、
社会現象になるぐらいの話題を呼びながら準優勝を果たしました。
蔦監督と池田はその後、
最強軍団を作ってさらなる社会現象となったことは、
記憶されていることでしょう。
昭和52年には、
高知の中村高校が、
今度は部員12人で選抜に初出場。
『24の瞳』と呼ばれ、
こちらも池田に負けずどんどん勝ち進んで決勝に進出。
見事に準優勝に輝きました。
あの四万十川のほとりにある、
いわゆる『僻地』の高校です。
のちにプロ野球で大活躍するエースの山沖を擁して、
1点差をきっちりと守り抜く野球でした。
昭和54年には、
愛媛の川之江高校が全くの無名ながら初出場。
8強まで勝ち進み、
『当時世代最強』と言われた牛島-香川のバッテリーを擁する浪商に敢然と向かっていって、
雨の中、延長の激闘を戦った記憶は、
忘れることが出来ません。
昭和60年は、
渡辺智男擁する高知の伊野商が、
KK全盛のPL学園を破り優勝までたどり着きました。
渡辺の”鬼気迫る”ピッチングは圧巻でした。
そしてこの昭和63年の宇和島東。
いずれも県の中心から大きく外れた地にたたずむ県立校という共通点がありましたが、
池田を除いた各校は、
『この初出場の時の活躍が、学校として最高の成績』
という、
”一瞬の輝き”を放った学校として、
今に至るまで深くファンの心に刻まれています。
こういったチームを数多く輩出していたことから、
『四国は野球どころ』
と呼ばれていたんですね。
決して『特定の強豪チーム』ばかりが目立っていたということはない時代でした。
話を上甲監督に戻しますね。
その昭和63年の優勝から時代は平成に突入。
上甲監督の攻撃野球は花開き、
平成の最初から10年間ぐらいは、
いつも『甲子園で優勝』という意識を持ってチーム作りをしていたと思います。
剛腕・平井(オリックス-中日など)を擁した93年のチーム。
豪打の橋本を中心に牛鬼打線がピークを迎えた94年のチームなど、
宇和島東は、スケールの大きいチームが多かった。
ちなみにその94年の春の準々決勝、
智弁和歌山との対戦は、
智弁和歌山のその後の躍進のきっかけになった、
大逆転劇でした。
岩村(ヤクルトなど)という稀有な存在を得たチーム(96年)もありました。
しかし時代の流れとともに、
県立校として徐々に全国大会での実績を上げることが難しくなり、
01年に退任。
その後同県の私立高で野球部の強化に力を入れ出した済美高校に移り、
野球部の強化に尽力していきます。
まだ創部2年の済美を、
04年のセンバツ初出場に導き、
そしてまたも『初出場初優勝』という偉業に導きました。
その済美高校。
選抜優勝までのたどった道程が、
実に宇和島東の時とよく似ていました。
しかしチームには、
投の福井、打の鵜久森、高橋という、
3人のプロ野球に進んで選手を擁して、
実に『新世紀型』の大型チーム作りをしていました。
その夏もまた、
甲子園で決勝に進出するという快挙。
決勝で敗れた相手が北海道に初めて優勝旗をもたらした駒大苫小牧というところから、
何だか済美の準優勝は完全に消されてしまったみたいになっていましたが、
この2004年の年度を代表するチームは、
まさにこの済美高校だったと思います。
この大活躍、
野球部創部3年目という短期間でのものだったため、
全国の私立の高校に、
『いい監督、いい環境、いい選手というものが揃えば、2,3年という短期間でも結果を導ける』
というメッセージを与えたと思います。
その後は鳴りを潜め、
時折甲子園に出るも往時のスケールの大きなチームではなく小粒だったため、
『上甲監督の時代も過ぎたか』
と言われましたが、
一昨年センセーショナルな話題とともに復活の兆しを見せ始めました。
その2012年夏。
甲子園では桐光学園・松井が奪三振記録を塗り替えて話題の中心になっていましたが、
実は『愛媛にはもっとスケールのデカい1年生ピッチャーがいる』
ということがささやかれていました。
そのピッチャーこそ、
安楽投手です。
安楽はすぐに秋の新チームで四国大会を勝ちぬいてセンバツ出場をゲット。
そして翌センバツで甲子園デビューを果たしました。
その後の活躍は周知のとおり。
このセンバツでは、
初戦から延長を投げ抜いた安楽が決勝までの間に投げた球数の多さが物議をかもしました。
外野の声は実にうるさく、
海外の記者などが『投げすぎ』について疑問を呈し、
それに乗っかった記者などがその事ばかりを質問するという様に、
上甲監督は辟易としていたのではないかと思います。
しかしベテラン監督らしく、
『気力、精神力が肉体の限界を超える』
ということを頑として譲らない頑固さで記者の質問をシャッタアウトする姿も見受けられました。
『上甲スマイル』
と言われた笑顔からは想像もつかないような厳しさが、
うかがわれた瞬間でした。
そして臨んだ今年の夏。
安楽の3年生としての最後の夏であったとともに、
振り返ると、
上甲監督にとっても長い監督生活で最後の夏になりました。
まだまだ故障から完全復活できていなかった安楽が打たれ、
県大会3回戦で伏兵にまさかの敗退。
無念をかみ殺した顔で、
安楽を、
そして選手たちをねぎらう姿が印象的でした。
あの姿が最後とは・・・・・。
本当に残念でなりません。
最後の最後までユニフォームを着て指揮を執ったという姿。
思い浮かぶのは、
明徳義塾の初期の監督である名将・松田監督。
秋季四国大会に出場するための遠征先で、
還らぬ人となりました。
創価の稲垣監督は、
確かグラウンドで倒れて最期を迎えたと記憶しています。
上尾の名将・野本監督も、
自分のチーム(浦和学院)を初めての甲子園に送り出して、
息を引き取りました。
『最後の最後まで、ユニフォームを着て』
壮絶な最期を迎えた監督さんたち。
悲しい記憶とともに、
深く心に刻まれています。
素晴らしいチームをいくつも作り、
強打の伝統を守り抜いて最期を迎えた上甲監督。
本当に、本当にお疲れ様でした。
ゆっくりお休みください。