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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

横浜高校・渡辺監督が退任を発表

2015年05月15日 | 高校野球

横浜高校の渡辺監督が、
今年の夏の大会を最後に退任することを発表。

1968年の就任以来およそ半世紀。
春夏5度の全国制覇、
それも70年代、80年代、90年代、そして00年代と4つの年代すべてで全国制覇を達成した、
稀有な指揮官でした。

積み重ねた甲子園での勝利数は51勝。
それにしてもまあ、
すごい数字です。

ワタシの高校野球観戦の歴史とほぼぴったりと重なる渡辺監督の監督としての歴史。
実に実に、
寂しさでいっぱいです。


池田の蔦監督、そして常総学院(取手二)の木内監督など。

長く同一校で指揮を執った監督さんは数あれど、
渡辺監督ほど『高校野球をより高いところに昇華させた』監督さんはいないのではないかというほどの、
素晴らしい監督だったと思います。

ワタシが横浜高校の存在を知ったのが昭和48年春。
選抜大会で初出場初優勝を飾った時でした。

白、そして紺基調のユニフォームが全盛の時代に、
グレーのユニフォームを身にまとった横浜高校は、
なんだかとても『オトナ』な感じに見えたものでした。

その横浜が、
『江川大会』に沸いた選抜で、
あれよあれよという間に勝ち進んで決勝へ。

前日の準決勝で江川の作新学院を破った広島商の優勝を誰もが信じて疑わない中、
延長11回の激闘で見事に優勝を飾ったのは、
子供心に衝撃的な出来事でした。

10回に1点を先取しながら追いつかれ、
『もう駄目だろう』
と思ったら11回に突き放したあのたくましさは、
強く心に残っています。

あの時の青年監督が渡辺監督でした。

今と違ってあのころは、
何だか20代の監督さんが多かった記憶がありますが、
その中でも渡辺監督は断トツに『若くてかっこいい』監督さんでしたね。

ちなみにその頃の監督さん。
30代も後半になれば『ベテラン監督』なんて言われていて、
『ものすごいおじいちゃん監督』として記憶に残っている人が、
まだ50代だったなんていうことが日常茶飯。

最年長監督が50代というのは普通で、
今みたいに60代・70代の監督さんなんて、
ほとんどいない時代でした。

この翌年に選抜で『イレブン池田旋風』を巻き起こす蔦監督だって、
ものすごいベテラン監督と言われていましたが、
この時はまだ50歳に差し掛かったばかりの歳。

決勝を戦った広島商の迫田監督も30代前半の青年監督。
そんな時代でした。


渡辺監督の著書によると、
このセンバツ優勝が重圧として重くのしかかっていったようですね。
そして若かったせいもあり、
のぼせ上がった時期もあったようで、振り返ると、反省の日々だったようですね。

その渡辺監督率いる横浜でしたが、
その後神奈川県には、
原貢監督率いる東海大相模の時代がやってきます。

横浜はこのセンバツ優勝の昭和48年、
そして選抜にも出場した翌昭和49年、
ヤクルトにドラ1で指名された剛腕・永川投手を擁していました。

しかし昭和48年夏の大会で甲子園への道を閉ざされると、
翌49年には、その後の3年間甲子園を席巻する東海大相模の1年生トリオ(原・津末・村中)らの前に一敗地にまみれ、
翌50年にも同じく東海大相模に歯が立たず後塵を拝してしまいます。

渡辺監督にとって、
『超えるべき相手』は、
東海大相模でありその指揮官・原貢監督でした。

当時の東海大相模はまさに”豪打”の野球。
打線の力で相手を粉砕するという、
力の野球でした。

そして横浜は、
その”豪打”に粉砕されてしまうことが多く、
なんとしてもこの状況を打破するためには『水準を超えた好投手』の存在が不可欠でした。

そこに現れた救世主が、
『新バンビ』とも言われた愛甲猛投手。

昭和53年に救世主のごとく現れたこの1年生投手は、
それまで4年連続で東海大相模が持っていっていた神奈川の覇権を、
見事に奪い返しました。

1年生の時代の愛甲は、
球威こそさほどではなかったものの、
長い左腕を利したカーブの曲がりは出色。

制球力もよく、
『夏勝てる投手』
という感じの好投手でした。

東海大相模の原貢監督は既に学校を去り東海大学の監督となっていましたが、
この昭和53年の甲子園出場こそが、
渡辺監督の原点なのではないかな?
そんな気がしてなりません。


マスコミは前年の甲子園でヒーローに祭り上げられた東邦・坂本投手の後を継ぐ存在ということで、
ことさら大きく愛甲のことを取り上げていました。

取り上げ方も『さわやか愛甲くん』ですから、
何だか隔世の感はありますけどね。

ちなみに愛甲と同級生で、
3拍子揃った1番として活躍したのが安西2塁手(元巨人)。

安西は本当にいい選手でした。
『牛若丸』
なんて命名されていたっけな。

その名は、
2年後の早実・小沢2塁手に引き継がれ、
彼の代名詞となりました。


その昭和53年に愛甲で『甲子園への道』を切り開いた横浜高校。
ここから黄金時代が幕を開けます。

その愛甲・安西が3年になったチームは、
骨太のたくましいチームに変身していました。

『横浜高校のチームとしての骨格』
を形作ったともいえるこの昭和55年のチームは、
春季関東大会で優勝を飾り、
夏の予選では早くから神奈川県の優勝候補に挙げられました。

強打のチームにして横浜がまだまだコンプレックスを抱えていたライバル・東海大相模は、
この年の夏の大会で”監督の殴打事件”に巻き込まれて泣く泣く夏の大会を辞退。
もう一つのライバルであったジャンボ・宮城の横浜商は、
宮城が調子を上げることが出来ず早々と敗退。

そして盤石のチーム状態で神奈川県を勝ち上がった横浜は、
優勝直後の勝利監督インタビューで、
渡辺監督が高らかに『全国制覇』を宣言。

全国大会でも選抜優勝の高知商と並んで”東西の横綱”に挙げられました。


果たして横浜高校3度目(渡辺監督2度目)の夏。
その実力は図抜けていました。

とにかくスキがない。

愛甲の安定感抜群のピッチングは崩れるそぶりも見せず相手を抑え、
長打力はさほどではなかったものの、
打球の速さは群を抜いていた打線は小技、足技も絡めて得点力が高く、
おまけに守備の固さも出場チームの中で屈指。

『優勝宣言も、ダテじゃないな』

と全国のファンに思わせて、
横浜は快進撃を続けていきました。


しかし、
その頃の甲子園の夏の大会は、
今と違って『力のあるチームは、どんどん大差で勝ち上がっていく』
という感じの大会はまずなく、
一癖も二癖もあるチームが優勝候補の行く手を遮るような、
実力の伯仲した大会が常でした。

こんなに力を持っていた横浜でさえ、
勝ち上がっていくのは茨の道。

3回戦の鳴門戦は、
は9回まで0-0のしびれる試合。
ここで安西が特大の3ベースで3塁へ。
そこで手を高々と挙げてガッツポーズをしていると、
あろうことか鳴門の中継が乱れてボールが転々。

安西はすかさずホームに駆け込み、
ここでも高々とガッツポーズ。

この1点が決勝点となり、
愛甲がこの1点を守り切って苦しい戦いをものにしたのでした。

ちなみにこのガッツポーズの安西選手。

それまでとかく、
『高校野球では、常に相手を思いやることが必要。だから、大げさなガッツポーズなどはしないように』
ということが良しとされていた高校野球界の”常識”に風穴を開けた選手です。

『嬉しいときは、うれしい表現をする』
という流れは、
彼から始まったと記憶をしています。

ちなみに週刊誌などでは、
『大げさなガッツポーズを連発するのはいかがなものか』
みたいなお門違いの”評論”もされていたんじゃないかな。


そして準々決勝では前年優勝の”常勝軍団”箕島と対戦。

この箕島。
前年に春夏連覇を成し遂げてはいたものの、
そのポスト年に当たるこの年の戦力はさほどではなく、
強豪との対戦では分が悪いとみられていました。

初戦では都立校として初めての甲子園を掴んだ”あの”国立高校と対戦。
勝ちはしたものの、
決してほめられた戦いぶりではありませんでした。

しかし、
2回戦で対戦した”西の横綱”高知商戦で、
箕島はその恐ろしさを満天下に知らしめます。

『大会屈指の剛腕』と言われたエース中西(現阪神コーチ)にくらいつき5点をもぎ取ると、
『ノーコンエース』とまで言われた左腕宮本が見事な投球を披露して高知商を完封。
まさかまさかの【大アップセット】を起こして高校野球ファンを驚かせました。

そして、
『さすがは箕島』
と唸らせてくれました。


その箕島と対戦した横浜。

実力では上回っていると思われるものの、
しぶとく食い下がられて3-2で9回へ。

ランナー1塁のピンチ。

球場全体が、
前年の『奇跡の箕島』再現かということで色めき立ちました。

緊張感のある、
いいシーンでした。

ここで愛甲が相手打者をピッチャーゴロゲッツーに打ち取り箕島は万事休す。
ワタシの心に今も残っている、
いい試合でした。


そして翌日の準決勝。

朝から大粒の雨が降り続き、
今にも『中止』になりそうな中、
天理との準決勝を迎えました。

その当時の天理は、
『大型チーム』の代名詞。

しかし不思議と、
全国制覇はおろか、
『甲子園で3勝』
の壁が厚く、
何度も跳ね返されていたチームでした。

天理はこの大会のチームは下級生中心で、
いつもの年と比べて期待は薄かったのですが、
このチームが甲子園にはいってからブレーク。

伊東(現ロッテ監督)の熊本工や優勝候補の一角であった広陵を破りはじめて甲子園で3勝。
波に乗って横浜に襲い掛かってきました。

試合は大雨の中7回へ。
そこで先攻の天理が1点を先取。

高校野球のルールでは、
『試合の成立は7回終了以降』
となっていますから、
横浜としてはこの7回に得点を挙げられなければ0-1でのコールド負けの危険があったわけです。

実際にグラウンドは田んぼのように水が浮き出していましたから、
『7回コールド試合』
は起こり得る感じに見えました。

7回裏の横浜。
焦りから簡単に2アウトを取られてしまい、
試合の流れは天理に傾いているように見えました。

しかしここから、
【野球の神様】が横浜に微笑みました。

何でもない3塁ゴロを田んぼのようなフィールドがアシストしてエラーを誘うと、
そこからは四球、タイムリー、長打と一気にたたみかけて3点。

まさにこれまで数十年にわたって続く『横浜の底力』が凝縮されたような試合で、
横浜はこの苦しい試合を勝ちきって決勝に進出しました。


決勝は、
この大会で新たなブームを作り出した1年生エース・荒木大輔擁する早稲田実。
初めての『京浜決戦』となって、
東京はえらく盛り上がっていました。


この試合。

報道などでは、
明らかに横浜は『ヒール』の役割を演じさせられていました。

荒木大輔の無失点記録は大会記録にあと1イニングに迫るところまでやってきていました。
『荒木が新記録を打ち立てて、早実が悲願の初優勝を飾る』
ということがまるで『世間の望み』であるかのような取り扱い。

横浜、早実のどちらも応援してきたワタシとしては、
実に複雑な決勝戦だったことを記憶しています。

決勝では、
荒木、そして愛甲という二人の好投手が序盤からバンバン打ちこまれるという、
予想だにしない試合展開となりました。

しかしそういう展開になれば、
『勢いの早実』よりも『実力の横浜』が上回るのは必然。

横浜は最後の最後でまた、
その強さを見せつけて夏の栄冠を手にしました。

本当に今に至るまで、
忘れた事のない、
思い出に残る大会でした。



横浜はこの全国制覇で、
『真の強豪』
への道を歩み始めました。

『神奈川の雄』から『全国の高校野球界を引っ張る存在』へ。

渡辺監督は【名将】という枕詞をつけて語られるようになりました。


しかしその後、
どんどん選手の質はよくなり、
甲子園への出場回数は増えているのに、
『甲子園で勝てない』という厳しい時代が続いていきます。

夏の全国制覇した昭和55年(1980年)以降平成9年(1997年)までの間、
横浜高校は春5回、夏4回の出場を飾りますが、
その間の甲子園での戦績は4勝9敗。

毎年強豪と言われるチームを作り上げ、
毎年のように主力をプロに送り出していたにもかかわらず、
甲子園で勝ち上がる術を忘れてしまったかのような戦いを余儀なくされました。

こんな苦難の時期があったからこそ、
その後の『甲子園で負けない横浜』のデータを駆使した野球も、
出来上がっていったのではないでしょうか。


そんな、ある意味の”低迷期”を完全に脱したのが、
ご存じの平成10年(1998年)の、
松坂率いる『高校野球史上最強のチーム』。

何しろ8月の新チーム結成から、
翌年10月の国体終了まで、
公式戦と言えるものすべてに優勝。

すべてのタイトルをものにして、
無敗のままその土俵を下りたという、
あの【伝説のチーム】です。

過去いくつも、
春夏連覇を成し遂げたチームは出現しました。

『ものすごく強い』
チームもいっぱいありました。

しかし、
地方大会から何から、
すべての公式戦で負けなかったチームなんて、
見たことも聞いたこともありません。

前代未聞というよりも、
空前絶後と言った方がいいかもしれませんね。


松坂大輔という、
高校野球100年の歴史の中でも並ぶものがいないと言われるほどの投手を中心に据え、
チームは主将の小山捕手(元中日)を中心にがっちりとまとまっていました。

打線は小池(元横浜)、後藤(現横浜)といった中心選手に、
周りを固める選手たちも長打あり、小技ありという選手が揃い、
全くスキというものがありませんでした。

相手の戦術に追い詰められて、
がけっぷちに追い込まられた夏のPL戦や明徳義塾戦。
それらの試合でも、
最後は崖っぷちから驚異の反撃を見せて、
最後は『やっぱり横浜が勝っていた』というチームでした。

高いモチベーションを持ち続けて、
秋の国体までを制したのは見事。

常にトーナメントでの戦いを強いられる高校野球の中で、
最後まで『負けなかった』というのは、
脅威以外の何物でもありません。


まさに『渡辺監督-小倉部長』コンビの、
集大成にして最高傑作と言えるチームでした。


その後はまさにつきものが取れたように、
『横浜高校』という名前で、
甲子園でどの年のチームも、
まるで『自分の庭』で試合をやっているかのごとく、
暴れまわりました。

『横浜の野球は、他とは違う』
ということで、
勝負の前から相手が勝手に委縮してしまう・・・・・・・
そんなこともしょっちゅうでした。

そしてその戦いぶりは、
常に甲子園を感嘆させる見事なモノ・・・・。
そんなチームに昇華していきましたね。


しかし渡辺監督とて、普通の人間です。

近年は段々、
年齢を重ねて今までのようにハツラツとした姿で甲子園で采配を振ることはなくなりました。

それでも『超ベテランになった姿は、また高校野球オヤジを興奮させる』存在だったのですが、
さすがに70歳を超えて、
今までのようにはいかなくなったということで、
引退を決意されたのだと思います。


近年の横浜高校の戦いの中で、
ワタシが特に印象に残っているのは、
2011年夏の神奈川県大会5回戦、東海大相模戦と、
2013年夏の神奈川県大会準々決勝、桐光学園戦ですね。


この両ゲームにおいて、
横浜高校はいずれもワタシにとっての『相手チーム』でした。

2011年は、
東海大相模が強烈な打撃力で選抜を制して、
本当に強かった年でした。

ここから東海大相模の時代が始まるとワタシは信じていて、
この5回戦も『普通にやれば、横浜は東海が負けるような相手じゃない』と思って見ていました。

しかし横浜エース・柳の好投の前にあの強打を誇った東海大相模打線が沈黙。
そして小技を絡めて『横浜野球』で得点を奪った横浜が、
3-1と逃げ切った試合でした。

その『大人の野球』に、
横浜の恐ろしいばかりの”怖さ”を見て、
震えてしまったような試合でした。


そして記憶に新しい2年前、
2013年の夏。

桐光学園が松井投手を擁して本気で『全国制覇』を狙っていた夏。
その前に立ちはだかったのも、
やはり横浜高校でした。

あの”アンタッチャブル”な投手であった松井から、
それまではいつもひねられていた2年生の浅間、高浜コンビが特大のアベックアーチをたたき込んで、
桐光学園の”夢”を完膚なきまでに叩き壊した、
という試合です。

『やはり横浜はすごい。凄すぎる!』

そんな感想しかありませんでした。


しかし近年、
神奈川県大会ではあれだけの強さ、隙のなさを見せる横浜が、
甲子園では何だか雑な戦いぶりが多くなってきて、
『あの横浜』
という様な甲子園を唸らせる戦いぶりが出来なくなっているのもまた事実。

このような状況で渡辺監督が退任して、
平田新監督がどのように『横浜高校の未来』を構築していくのか、
注目しています。


それにしても、
『横浜高校と言えば渡辺監督』
が当たり前だった50年余り。

それ以外の想像が、
頭の中に沸いてきません。

それほど、
高校野球にとって、
大きな存在でした。

これからは大所高所から、
高校野球を見ていってほしいと思っています。

プロ野球で言うところの、
王さんの様に。


いずれにしても、
今年の夏の神奈川大会、
盛り上がりそうですね。

今年は県内で全く実績を残せていない横浜高校の選手たち、
今年の夏はノーシードからの戦いとなりますが、
どこまで頑張ることができるのでしょうか。

渡辺監督を、
『甲子園で胴上げ』
出来るのでしょうか。

注目しています。



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