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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

最も印象に残った球児   14.東東京

2012年07月17日 | 高校野球名勝負

最も印象に残った球児

14.東東京



荒木 大輔   投手  早稲田実   1980年 夏   1981年 春夏   1982年 春夏


甲子園での戦績

80年夏   1回戦    〇  6-0    北陽(大阪)      
        2回戦    〇  8-1    東宇治(京都)
        3回戦    〇  2-0    札幌商(南北海道)
        準々決勝  〇  3-0    興南(沖縄)
        準決勝    〇  8-0    瀬田工(滋賀)
        決勝     ●   4-6    横浜(神奈川)
81年春   1回戦    ●   2-6    東山(京都)
    夏   1回戦    〇  4-0     高知(高知)
        2回戦     〇  5-0    鳥取西(鳥取)
        3回戦     ●  4-5     報徳学園(兵庫) 
82年春   1回戦    〇  3-1    西京商(京都) 
         2回戦    〇  3-0    岡山南(岡山)
        準々決勝   ●  1-3    横浜商(神奈川)
    夏   1回戦    〇  12-0    宇治(京都)
        2回戦     〇  10-1    星稜(石川)
        3回戦     〇   6-3    東海大甲府(山梨)
        準々決勝  ●   2-14    池田(徳島)


高校野球の歴史を語るうえで、
忘れてはいけない球児の一人が、
この荒木大輔である。

名門・早実のマウンドを1年夏から守り続けて5季連続の甲子園出場。
通算12勝を挙げ、そのうち8つの完封勝ちと、
とにかく安定感抜群のピッチングで3年間甲子園に君臨し続けたヒーローでした。

涼しげではにかんだ表情が女性ファンのハートをガッチリと掴み、
三沢・太田、東海大相模・原ら歴代の”アイドル”と言われた球児以上に、
甲子園に”大輔フィーバー”を巻き起こしたのが、
昨日のように思い起こされます。

そしてそのフィーバーは、
18年後の98年、
荒木から取ったという”大輔”という名前を持ったスーパー球児・松坂大輔(横浜)に引き継がれ、
その8年後の06年には、
母校の後輩・斎藤祐樹に引き継がれるという系譜をたどります。

その元祖ともなった荒木大輔は、
80年夏に颯爽とデビューしました。

前年まで毎年のように甲子園に出場していた名門・早実はこの年、
エース不在に苦しんでいました。

選抜では同地区から出場した帝京が伊東投手で準優勝まで駆け上がり、
悲願の甲子園初出場を飾った二松学舎にも、
西尾という東京屈指の好投手がいました。

そんな年とあって、
早実の東東京における”位置づけ”は3~4番手。
『打線はいいが、軸になる投手が・・・・』
という評価でした。

おまけに背番号1をつけたエース芳賀が故障。

ということで、
東東京大会の中盤からは、
『スーパールーキー』の荒木が、
早実のマウンドを守ることに。
背番号は11でした。

しかしこの荒木、
知る人ぞ知る逸材。

その当時”黄金ルート”とされた【調布リトルリーグ(現シニア)⇒早実】というエリートコースを歩んできたばかりか、
そのリトルリーグでは”世界一”も経験。
まさに”即戦力”として期待されての高校入学でした。

ちなみに、
ライバルの帝京・伊東投手もリトルの日本代表メンバーのエース。

二人の特徴と言えば、
とにかくコントロールがいいこと。

二人を見て、
『さすがにリトル出身は違うなあ』
と思っていたのを思い出します。


さて、
東東京大会では準決勝で伊東と投げ合った荒木は、
帝京打線をほぼ完ぺきに抑えきって、この選抜準優勝校を撃破。
決勝では強打の二松学舎につかまりかけますが、
打線が奮起して西尾をKO。

早実が2年ぶりの甲子園のキップをつかみました。


甲子園での初戦は大阪の北陽。

この年の大阪では敵なしのこの北陽、
選抜では初戦で帝京の伊東に完封負けを食らってしまい、
捲土重来を期しての甲子園でした。

そして初戦の相手は、
またしても東京の帝京。
相手のエースは、
またしてもリトル上がりの下級生。

【大阪のど根性野球】が看板の北陽。
かなり気合が入っていたのですが、
荒木はその相手の気合いを逆手に取り、
外角低めに速球と切れ味鋭いカーブを配して、
チーム打率.350強の北陽打線にまったく付け入るスキを与えず1安打に完封してしまいました。

この試合は、
3年間にわたる【大ちゃん狂想曲】の幕開け。

この後荒木は、
『外角低め』に寸分たがわず投げるそのピッチングの精度で、
並み居る相手をまさにバッタバッタと打ち取っていきました。

2回戦、3回戦、準々決勝・・・・・・・
勝ち進むうちに荒木が並べたスコアボードのゼロの数も増えていき、
準決勝終了時には
『44イニング無失点』
というとてつもない記録に到達し、
決勝を迎えました。

決勝の相手は、
前評判では『優勝候補筆頭』と言われ、
県大会終了時に渡辺監督自ら【優勝宣言】をして甲子園に乗り込んできた横浜高校。

2年前に『バンビ2世』と言われてアイドルと称されながら、
この最後の夏まで甲子園を掴み取ることが出来なかったエース愛甲は、
幼さの残る2年前とは全く違う、
『ごっつい荒くれ』の風情で甲子園に乗り込んできました。

荒木について聞かれると、
『アイドルだと・・・・?しゃらくせえ』
と言っているように、
ワタシには聞こえました。(実際にはそんなこと言ってませんよ!)

そんなコントラストを醸し出し、
しかも初の≪京浜決戦≫。
首都圏でこの試合に注がれた注目度は、
それこそMAXでしたね。

荒木は、
この試合で1回を抑えきれば『無失点記録』を達成するところでしたが、
横浜はその荒木を1回に鋭く襲って2点を奪い記録への期待を打ち砕くと、
3回までに5得点。
荒木をマウンドから、
まさに『引きずりおろし』ました。

その後早実も反撃するものの追いつかず、
横浜高校に夏初めての栄冠が輝きました。


この大会が終わった後、
高校野球ファンはこの飛び出したヒーローが、
これから2年間、
どれだけすごい記録を打ち立てるのか、
ワクワクと胸躍らせていたと思います。

フィーバーもとどまるところを知らず。

しかしその喧騒が、
荒木を『普段のまま』にしておかなかったのは、
推して知るべしというところでした。

その後出現する桑田・清原のKKコンビは、
早実と同じ野球名門校でしたが、
野球部は全寮制で堅く学校が二人をガードして、
野球に集中する環境を整えていました。
その結果、
PLは”最強軍団”の名にふさわしい戦績をその後残すのですが、
早実はそこまでのガードを敷くことはできませんでした。

おまけに早実は、
学校のある高田馬場からグラウンドのある東伏見(いずれも当時)までは、
選手がいつも電車で移動していましたので、
その中で喧騒から逃れるのは、
本当に大変だったと思います。

そんな中、
荒木は5季連続でチームを甲子園まで導いたのですから、
大したものだと思います。

それだけ突出した存在だったのです。

春のセンバツは2度出場しましたが、
今ひとつチームがピークになっていない感じで、
2度とも敗れ去りました。

彼に全国制覇のチャンスがあったとするならば、
やはり2年の夏でしょうね。

この年の早実は、
3年間で最も打線の力は弱かったと思いますが、
荒木の投球は冴えていました。

得意の足と小技で4,5点を奪い、
荒木のピッチングで逃げ切るという先行逃げ切り型。

そのため、
常に彼らは試合では【先攻】を取っていました。

1・2回戦を完ぺきな『早実野球』で突破して迎えた3回戦。
相手は報徳学園でした。
その報徳のエースは、スーパー球児・金村。

2回戦では、
前年優勝校の横浜と対戦し、
金村の2打戦連発で撃沈し、この3回戦に進出してきました。

荒木vs金村

この対決には、
高校野球ファンの誰もが注目していました。

荒木はこの日も絶好調。
終盤まで報徳打線を抑えきると、
打線も終盤に金村を捕らえ4点。

4-1で最終回を迎えるという、
早実にとってはゲームプラン通りの展開でした。

この回の先頭は金村。

この最後の対決、
金村は荒木の速球をとらえ、
打球はセンター前へ。

と思ったら、
”早実の牛若丸”セカンドの小沢が、
この打球に追いついて1塁へ。

『アウト!!』

誰もが思いましたが、
審判の両手は横に広く広げられ、
ここから報徳の大反撃が始まるのでした。


この時の小沢のプレー。

ワタシはいまだに、
守備における【高校野球最高のプレー】だと思っています。

あれがアウトなら・・・・・・・

31年も前のことなのに、
いまだにそのことに思いをはせる、自分がいたりもします。


荒木がその後あっという間に呑み込まれた報徳の大波、
ものすごい迫力でした。
そしてこの波に乗って、
報徳は悲願の全国制覇まで駆け上がっていくのです。

この3回戦の激闘。

この大会のハイライトだったと思います。

そしてこの3回戦を超えていたなら、
早実は斎藤祐樹の出現を待たずとも、
悲願の全国制覇を成し遂げていたのではないかと・・・・・・・思います。
歴史の【 if 】ですね。


そして、3年生になった荒木。

この3年時の荒木は、
なんだかいつも肩やひじに爆弾を抱えながら、
調整のみを行っていたように感じます。

この年打線の強化を図ってきた早実は、
かつての【強打早実】を取り戻したような迫力のある打線で臨んできましたが、
やはり大黒柱・荒木が抑えなければ試合にならないのは、
試合が証明してしまいました。

最後の夏、
なんだかピリッとしない投球を続けた荒木は、
雨上がりの準々決勝で、
その後高校野球界を席巻する池田打線につかまり、
その3年間の甲子園野球に別れを告げました。

江上や水野が荒木から特大のアーチをたたき込み『時代が変わった』ことを印象付けたと言われていますが、
時代というよりもやはり、
荒木自身の投球が最後まで本調子に戻らなかったというのがすべてだろうなという思い、
今でも持っています。

【荒木大輔】

ワタシにとっても、
まぎれもないヒーローでした。

年齢が近いというのもありますが、
その世代の光輝いたフロントランナーには、
いつまでも輝いていてほしいという思いは、
誰にでもあると思います。

そういう意味で、
プロに入った荒木が”復活”を遂げた登板、
胸が熱くなりました。

今ようやく、
ヤクルトに戻ってコーチとして輝きだした荒木大輔。

やっぱり行く行くは、
監督としてその姿を、
高校時代から戦いの場だった神宮や甲子園で、
見せてほしいと思っています。


やっぱりワタシにとっては、
古田じゃなくて、荒木なんだよなあ。

長々と失礼しました。
何しろ思い入れが強いもんで。


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