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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

最も印象に残った球児   13.千葉

2012年07月16日 | 高校野球名勝負

最も印象に残った球児

13.千葉



土屋 正勝   投手  銚子商    1973年 春夏   1974年 春夏


甲子園での戦績

73年春   1回戦    ●  0-16    報徳学園(兵庫)      
    夏   1回戦    〇 1-0     岡山東商(岡山)
        2回戦    〇 1-0     作新学院(栃木)
        3回戦    〇 4-3     高松商(香川) 
        準々決勝  ●  3-5     静岡(静岡)
74年春   1回戦    〇  1-0    岡山東商(岡山) 
         2回戦    〇  7-2    日大三(東京)
        準々決勝   ●  1-2    報徳学園(兵庫)
    夏  2回戦     〇  5-1    PL学園(大阪)
        3回戦     〇  5-0    中京商(岐阜)
        準々決勝   〇  6-0    平安(京都)
        準決勝    〇   6-0    前橋工(群馬)
        決勝      〇   7-0    防府商(山口) 


【野球王国・千葉】
ワタシが幼少のみぎりより、
何度も何度も耳にした言葉です。

ワタシが高校野球を見始める前に、
すでに千葉県は習志野が全国制覇を達成していました。

習志野という、
ベッドタウンに位置する新興勢力に先を越され、
その頃思いをしていたのが、
どこよりも野球に熱い土地柄の銚子の野球ファンでした。

漁師町のチームだけに、
その応援は熱い熱い。

ねじり鉢巻きに大漁旗を振った漁師のオッチャン達が、
甲子園のみならず千葉のどこの球場でも大量に現れ、
選手を『叱咤激励』しながら応援を繰り広げていました。
それは甲子園の風物詩ともなっていました。

その漁師町・銚子の象徴が、
強豪・銚子商。

剛腕・木樽を擁して準優勝した65年をはじめ、
ここまで4強1回、8強3回、
おまけに初戦敗退なしのこの銚子商が、
どうしても届かなかった全国制覇。

熱血の斎藤監督率いるこの軍団に対し、
地元の期待はいやがうえにも盛り上がっていました。

この強豪のマウンドを2年生から一人で守ったのが土屋正勝。

2年のセンバツでは、
報徳学園にありえないような大差、0-16で敗れ去ります。
土屋はこの試合先発ではありませんでしたが、
後の好投が信じられないような乱調ぶりでした。

地元に帰ってからの『罵詈雑言』は、
想像するに余りあるほどのものだったと言います。

そのプレッシャーをはねのけて登場した73年の夏の甲子園。
その夏の甲子園には、
銚子商がいくら対戦しても跳ね返され続け、
おまけに1点たりとも取ったことがない作新の江川が優勝候補筆頭として出場していました。

銚子商は初戦、
難敵の岡山東商と対戦します。

この時の岡山東商のエースも、
土屋と同じ2年生の土居投手。

この対戦で土屋は、
ようやくその本領を甲子園で発揮。
延長12回を投げ抜き1-0と勝利をつかみました。

ちなみに、
土居投手とは翌74年のセンバツでも初戦で投げあい、
またも1-0で勝利を収めています。

両校ともに死力を尽くしたこの戦い、
好投手数え歌にもうたわれるほどの好ゲームでした。

その難敵を葬り去って迎え撃ったのが、
かの江川擁する作新学院。

雨中の激闘は、
後々まで長く語り継がれる激闘でした。

それまで作新に勝ったことがない銚子商が、
気迫で江川に挑んでいく姿、
とてつもなく凄いチームだとの感想を持ちました。

本調子ではない江川と銚子商の対戦は、
終始銚子商が主導権を握り、
江川がどうにか凌ぐという展開だったと思います。

そういう意味でも、
この試合は点差以上に、
銚子商の完勝だったというイメージが残っています。

しかしこの1,2回戦で消耗したか、
土屋はそれ以後ガラッと変わったピッチングになってしまいましたね。

高松商に追い詰められ、
静岡には完全に攻略されてしまい、
『今年こそは優勝』
という熱い夢は、
翌年に持ち越されることになりました。


翌74年のセンバツ。

江川なき甲子園でしたが、
関東からはこの土屋、前年選抜優勝投手の横浜・永川。
そして剛腕土浦日大・工藤の3人が、
【関東3羽ガラス】として注目を集めていました。

いずれ劣らぬ好投手との呼び声が高かったのですが、
いずれのチームも打線に迫力がなく、
早々に敗れ去ってしまいました。
(そこで台頭したのが、『さわやかイレブン』の池田高校でした)

土屋を擁し、
他の選手のレベルも高かった銚子商。

しかし残された大会は夏のみ。

ということで、
斎藤監督はこの74年の夏の大会に、
本当に賭けていたようでした。

その気迫に選手は応え、
甲子園に出場したチームは、
他のどの学校よりも1枚も2枚も上の”完璧な”戦力を整えていました。

この年の銚子商業。

投手力も、
打力も、
守備力も、
どれをとっても超一級品。

時代は違いますが、
桑田・清原のPLなどにも決して引けを取らない、
【高校野球界最強チーム】
といってもいいような戦力を整えていたと思います。

その闘いっぷりは、
まさに『他を寄せ付けない』という言葉がぴったり。

土屋は県大会から通じて、
わずか2失点で10試合以上にわたる”熱い夏”を走り抜けました。

準決勝の前橋工に圧勝した後の新聞は、
こう書き記しました。
【銚子商 非常なまでの完璧さ】

斎藤監督の集大成の年に、
まさにこんな完璧なチームで優勝を堂々と奪い取った銚子商。
銚子のファンの誇りでしたね。

大会後のパレードの写真がありますが、
ま~凄いのなんのって!
この熱さが優勝を後押ししたんでしょうね。


しかしこれから数年後には、
甲子園のアルプスから銚子の大漁旗は消えてなくなりました。
なぜって?
高野連が禁止したからですよ。

そして応援も、
『〇〇倒せ!お~』
の言葉は、
禁止されてしまいました。

時代がやさ~~~~しく変化していくにつれ、
次第に銚子商の姿も、
甲子園で見ることは少なくなってしまいましたね。

90年代の中盤(95年)や2000年代に入ってから時折出場し、
斎藤監督の息子などが率いて決勝まで勝ち進んだりしましたが、
もはや『あの強かった銚子商』
の昔日の面影を見ることはできませんでした。

それでもファンは、
銚子商の華麗なる復活を、
心待ちにしていますよ。

剛腕を擁して相手をバッタバッタと切り捨て、
打っては黒潮打線でなぎ倒す。

そんな銚子商の復活、
ワタシも楽しみに待っています。



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