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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

西武第1期黄金時代の守り神、必殺仕事人・永射保氏が死去。

2017年06月27日 | プロ野球

~日刊スポーツより~

左のサイドハンド投手として西武などで活躍した永射保(ながい・たもつ)氏が、
24日午前8時ごろ、がん(部位非公表)のため、福岡・久留米市内の病院で死去した。
63歳だった。

永射氏は鹿児島県出身。指宿商から71年ドラフト3位で広島に入団。
その後、太平洋クラブ、クラウンライター、西武、大洋、ダイエーでプレー。
ワンポイントの中継ぎ左腕の先駆け的存在で、門田、レロン・リーを抑え、「左殺し」として名をはせた。
通算606試合、44勝37敗21セーブ。


このニュースを聞いて、
遠い目になってしまいました。
ショックでした。

西武ライオンズ【第1期黄金時代】を支えた永射が、
鬼籍に入ってしまいました。
63歳。まだまだ若いですね。

西武ライオンズが創設された昭和54年から、
小さな体と細い左腕を駆使し、
来る日も来る日も、パ・リーグの強打の左バッターを、
きりきり舞いさせたスーパーリリーバーでした。


思えば、西武ライオンズができるまで、
パ・リーグの試合を見る機会と言えば、
オールスターと日本シリーズぐらいだったワタシ。(というか、日本全国そうだったと思います)

その日本シリーズは、
毎年のように阪急ブレーブスが出場してきたので、
その当時『黒い霧事件』もあって下位に低迷していた太平洋・クラウンなどの試合なんて、
見たこともありませんでした。

唯一ワタシと太平洋・クラウンという”ライオンズ”との接点は、
週刊ベースボールとプロ野球スナックについている野球カードぐらい。
そんな時代でした。

しかし昭和53年秋、
西武がワタシの地元にやってきてすべてが変わり、
『プロ野球の球団が来るって、こんなにいいことなんだ~!』
ということを実感した、
昭和の遠い日の思い出です。

そんな西武ライオンズの創成期、
テレビ埼玉でも中継が日常的に行われるようになって、
ワタシは今まで知らなかった(プレーを見たことがなかった)選手たちを、
一気にたくさん知るようになりました。

個性的なプレーヤーは実にたくさん揃っていて、
キラ星のごとく並んだ田淵、野村、山崎、古沢などの『もともと知っていたプレーヤー』に交じって、
永射保や大田卓司といった『これまでに知らなかった素晴らしいプレーヤーたち』も、
ワタシはたくさん知ることになりました。

永射と大田は、
そんな中でも、
ワタシの最もお気に入りのプレーヤーとなりました。

2人ともまさに『九州男児』という感じの、
『男は黙って勝負する』という侍タイプのプレーヤーでした。

大田は『ここ』というチャンスの場面でバットを持って現れ、
ズバッと相手を斬るバッターとして、
永射は相手に圧倒的に押された場面で出てきて、
チームの最後の砦として相手の侍をズバッと斬るピッチャーとして、
西武ライオンズ創世記のチームを支えてくれました。

2人の姿で、
最も記憶に残っているのが昭和57年の前期。
西武ライオンズ初優勝の年です。


かつてパ・リーグは、
各65試合の前・後期制。

1シーズンで2チームの優勝チームが、
最後の決戦としてプレーオフを戦うという流れでした。

昭和57年の前期。
広岡監督が西武の監督に就任し、
この年から西武は『耕す時代は終わった。いよいよ収穫の時期だ!』と、
本気で”勝ち”を取りに行きました。
気合はバリバリ、
『優勝しかない』と選手も力が入っていたと思います。


そしてそのとおり、
西武は開幕から絶好調。
特にこれまでは代打などでの出場も多かった大田が、
DHやレフトなどでずっと中軸に座って打ちまくり、
主砲・田淵の不振を補って余りあるMVP級の活躍を見せ打線を引っ張ると、
投手陣でも各選手が揃って活躍し、
【夢の初優勝】へ加速していきました。

そのシーズン。

もうワタシなんか、
毎日が楽しくて楽しくて。
あれほどのワクワクの日々を過ごしたのは、
後にも先にもあのシーズン以外にはない、と断言できるぐらいです。


順調に勝ち星を重ねていく西武。
しかし好事魔多しとはよく言ったもので、
優勝も間近に迫ったある試合、
レフトを守っていた大田が相手の鋭い打球をダイビングで取ろうとし、
手を負傷してしまいます。(指の骨折だったかな?記憶は定かではないです)

そこで暗雲漂った西武は、
そこから失速。
ひたひたと追ってくる阪急に追いつかれそうになり、
西宮球場での天王山を迎えました。

初優勝の為に、まさに『この一戦』というしびれる試合。
この試合に、
広岡監督は驚きの”勝負手”を打ってきました。

それこそが、
リリーフ投手だった永射保の先発。

阪急は驚き度肝を抜かれて、
そのせいもあったのか西武打線が前半から爆発。
この天王山を制して、
初めての優勝を成し遂げるのです。

西武のこの奇策、
当時は『広岡マジック』として、
はやしたてられたものでした。

しかし広岡監督の起用に、
見事に応えた永射の好投なくば、
そんな手もただの奇手に終わったことでしょう。

プレッシャーのかかるマウンドで『やってくれた』永射、
凄すぎる好投でした。

この天王山での永射投手。
『カッコよかった!』
というイメージしか、ワタシには残っていないです。

それまでは、
左のワンポイントとして、
日ハムのソレイタ・クルーズ、
ロッテのリー、
その他左の強打者に対して『一人一殺』でマウンドに上がることが多かった永射の、
こんな長いイニングを投げるのをはじめてみた・・・・・という試合でした。

永射はこの試合、
淡々といつもと変わらず、
一人一人の打者に向かっていっていましたね。

『西武には、こんなに頼りになるピッチャーがいるんだ!』

ということが、
ワタシの誇りにもなりました。


そんな、
思い出いっぱいの投手です。

その後も、
常にピンチで左の強打者なら、
必ず『永射~行ってくれ~!頼んだぞ~』
とチームからもファンからも、
絶大な信頼を受けた【大投手】でしたね。

特にソレイタは、
その頃『竜虎相打つ』と言われた西武と日ハムのライバル対決の中で、
ホームラン王を何回も獲りながら
『西武との大事なところで、永射が打てないから』
という理由で解雇されたんじゃなかったかな?!

それほど外人の左打者にとっては、
『見るのもいや』
という選手でした。

今でいうと、
巨人の森福に近い投げ方をする【左のアンダースローに近いサイドスロー】でしたが、
西武ファンとして言わせてもらうならば、
『永射の方が、ずっとクオリティーの高いピッチャーだった』
って感じでしたね。

翌昭和58年の日本シリーズでも、
巨人の篠塚相手に、
見事に三振に切って取ったシーンが思い起こされます。


もう本当に、
ワタシの大好きなプレーヤーでした。

この永射に大田、辻・・・・・

チームの中ではバイプレーヤーで、
侍のような技術を極めた選手が、
ワタシのお気に入りの選手だったんです。。。。。
(もちろん、長嶋や王のような、キラキラ星の選手も好きですけど。)


永射保氏の死去の報に触れて、
また思い出がよみがえってきてしまいました。

安らかにお休みください。
合掌。


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