引き続き『分かれ道』のレビューの続きです。今回は第三章および第四章を読んでのもの。
個人的備忘録を兼ねます。
ここでは第三章の「嵐」と題されたパートが、脳裏に強く焼き付いています。
ちょうど読んでいたのが、金曜日の午前中、横浜が暴風雨に見舞われていたときで…
まさに「嵐」の中で読み進めたので、よけいに強い印象を受けたのかもしれません。
もともと私がこの本を読むことにしたのは、現在進行形でイスラエル国家によるシオニズムの暴風がパレスチナで荒れ狂っていて…
客観的に見てイスラエル国家の「主役」であるユダヤ人の同胞である著者が…
それに関する批判を「身内から」どのように展開しているのか、ということに強い興味があったからです。
第二章、第三章で著者は、やはり同胞であるベンヤミンの思想・著作を分析する中で論を進めていますが…
この「嵐」のパートではまさにイスラエル国家の、ガザでのパレスチナ人への攻撃について触れています。
アメリカで原著が出版されたのは2012年ですから、12年前のことではありますけれど。
現在というのは往々にして、すでに起こったことへの対価の要求を通じて、また懲罰と復讐の循環によって、過去に取り押さえられている…
とバトラーは書いています。
これはどの「民族」の間についてもいえることで、過去に起きた戦争や迫害の歴史がそこにある限り…
「過去にあった罪」を互いに忘れて「今」を生きることはできない。少なくとも非常に困難なのであって…
そこには「贖い」「赦し」が存在するか、もしそうでなければ「懲罰」「復讐」の果てしない循環があるか、になってしまいます。
我々の国の場合も、過去の大日本帝国が犯した罪から生じた軋轢が、いまだに近隣国との間にあります。
おそらくそこには、完全な形での「贖い」と「赦し」が成立していないからなのだと思われます。
少なくとも本当の「贖い」は、賠償の「金」だけで遂げられるものではないのでしょう。
たとえば被害側の国民的な「赦し」が存在し得るとすれば、加害側の国民が「罪」を全面的に認めた場合のみでしょう。
東アジアの問題のように「あれは罪ではなかった。被害者とされる者たちを解放し、あるいは助けるための戦争や支配であった」
とか「そもそも加害行為など実際には存在していなかったのだ。ねつ造なのだ」…
などという言説が、それなりに広く、しかも繰り返し繰り返し「加害側」から出てきてしまうような状況であっては…
形だけ、たとえば賠償金などの形で謝罪しても、本当の「贖い」と「赦し」など望むべくもないのは…
ある意味、当然のことなのではないかと私は思います。
「贖い」や「赦し」は金銭の問題ではなくて、主には認識と心の問題であるのですから。
東アジアにおいては「復讐の循環」こそ、一応、まだ起きてはいませんけれど…
バトラーがイスラエルとパレスチナとの関係で書いているのと本質的には同じように…
現在が過去によって「取り押さえられて」いること、それから解放された「今」がもたらされてはいないことを意味するのでしょう。
それがもたらされない限り「未来志向の関係」とか「前向きで進歩的な二国間関係」などと言葉だけで言ったところで…
真の解決にはなっていないし、本当の隣人、友人としての関係を築くことはできないでしょう。
次の四章の中で、いみじくもバトラーが書いているこの文章は、そういう意味で私たちにも刺さってくるものだと思います。
私たちが問わねばならないのはおそらく、いかにある種の進歩が…他の歴史を、征服された者の歴史を抹消しているのかということであり、またそれにも関わらずいかにその「非歴史」がいまだその(加害・征服された者の)存在を私たちに感じさせ、要請をし、進歩の方針そのものを混乱させているのかということだ。
この本の中での問題はとりあえずユダヤとパレスチナのことなので、そちらは一旦措きますけれど…
私たち日本人の立場としては、深刻な人道問題として、また世界史を揺るがす大事件としてパレスチナ問題を考えるだけでなく…
支配者と被支配者、加害者と被害者の問題として、私たちと東アジアの近代史、その過去の関係性をも…
どこか頭の隅に置いて、このことを考えて行かなければいけないのでしょう。
本に戻ります。
バトラーは「民族」あるいは「国家」の間で行われるほぼすべての暴力が「自己防衛」あるいは…
「報復」の名のもとに行われること…
そしてしばしば「自己防衛」と「報復」には、歯止めがなくなることについて言及します。
2008年から2009年にかけてのガザに対する戦争について…もっと具体的に言えば、イスラエル国家によって喚起される「自己防衛」概念…
自己防衛はどのような条件下で自己保存の問題から遊離して、歯止めの効かない暴力を正当化する条件として機能するようになるのか。
まさに防衛が国家を正当化する役割を担っているがゆえに、防衛は常に正しく常に合法的であり、国家の名において行われていることになる。これはきわめて危険な結果をもたらすと私は示唆したい。もちろん自己破壊(防衛しないことで自己を滅ぼすこと)を目標とすべきだ、などと言っているわけではない…
けれども私は、自己防衛と自己破壊の二者択一を前提としないような政治的思考法や行動法を、しぶとく模索している。自己防衛か自己破壊かという、閉ざされた弁証法の内部では、究極的にはどんな思考も不可能だ。ましてや支持することのできる政治などそこには存在しない。
バトラーは、ユダヤ教およびキリスト教の戒律に絡めて、つぎのように述べます。
「汝殺すなかれ」という戒律は、実際の正当な自己防衛の瞬間と、はてしない自己正当化をおこなう武力侵攻に資するような、自己防衛の利己的な利用とをはっきりと区別するよう、強大な責任を課す。
もしすべての殺害があらかじめ、そして遡及的に自己防衛と名付けられるのであれば、その時、自己防衛はもはや殺害に対して信頼に足る正当化としては作用し得ないだろう。侵されるすべての暴力を「自己防衛」と名づける者の側によって、ありとあらゆる殺害が正当化され、肯定されるのだから。
そして、前に読んだ『非暴力の力』と同じ命題が、ここでも提出されます。
けれどもこの、守られるべき「自己」とはいったい何であるのだろう。そしてあらゆる殺害がなされた後に、実際に残されるのは、どのような種類の自己なのだろう。
そしてこの「自己」を理解するために、それがみずからをどのようにして、どのような境界によって定義するのかを、問う必要はないのだろうか。
国家暴力、軍事という範疇に入ってしまうと「自己」の範囲は、際限なく拡大してしまうものであるということについては…
『非暴力の力』の中でも言及されていました。国家を超え、同盟国、さらにそのまた友好国…
他国の「経済的利害」を守ることまでが「自己」防衛であるとされてしまいかねないし、実際にされている「現実」があります。
また、暴力で破壊する他国と自国との間にも、現代のグローバル化された世界では、深い共依存関係があるわけです。
そういった「現実」の現代世界を正しく見たときに「自己」と「他者」の区別をつけること自体が本当に可能なのか。
それを敢えて区別することは、決して「現実」の反映ではなく、もっぱら「政治」なのではないか。
政治的な利害は、本当に暴力やひとごろしを正当化できるものなのか?
この問題について、バトラーが書いている文章を最後に引用して、今回は終わります。
境界なくして自己は存在しないのであり、またその境界は常に多様な関係の場であるのだから、こうした関係なくして自己は存在しない。もしも自己が、まさにこうした見解からみずからを守ろうとするならば、それは自己というものが、定義上、他者と固く結ばれているということを、否定することになる。そしてこの否定によって、この自己は危険にさらされることになる。これは唯一の選択肢が、破壊されるか破壊するかしかない世界に住むことになるのだから。