父がどうしても法事に出ると言い張っている件...
いま身内では、父に対して一番説得力があると思われる叔父に電話して、無理じゃないかと口添えしてもらえるように頼んでみました。
息子相手だともうわがまま言い放題な上に、古い人は上下の感覚が強いので、子は「目下」ということで聞いてくれないので。
叔父は承知してくれて、今晩にでも電話してくれるということになりました。
ただそれでも、弟の言うことなので「行く!」と言って聞かなかった場合は、もうどうしようもないと。
なのでそのときのために、私より若くて(といっても五十代ですが)体の大きい従弟をふたり、参加させてくれるとのこと。
おとな三人がかりで、なんとかなるかどうかも正直言って分からないけれど、○君ひとりが被らないようにはするから、ということに。
全く傾斜がなくて、少しのでこぼこもない(石や砂利もない)平滑な場所しか安全に歩けない...
自分のいまの足腰の状態を自覚して、諦めてくれることを祈るばかりです。
車椅子を使っているのなら、逆に男三、四人いればなんとか持ち上げて上がれるのですけれどね...
室内歩行器は絶対にいや、車椅子も「いよいよとなるまで」使いたくないと言い募っている人なので。
「いよいよとなるまで頑張る」の、いよいよの基準が曖昧で、時間とともにどんどん上がって行っている現状...
それを支えて「頑張る」をやらなくてはいけないのは、本人よりもむしろ周りなのだということに、気づいてくれる認知力は...もうないのでしょうね。
父のケースを他山の石として、もし仮に私が長生きするようなことになったら(いやですけど)、まだ頭がはっきりしていて「いよいよ」なんてことになる前に...
周りに過重な負担をかけないような手はずを自分で整えたり、世に言う「終活」を、ちゃんとやっておかないとな、と思います。
一切、全く何もせずにただ漫然と老いを迎えると、家族だけでなく他人にも大変な負担をかける。私は個人の考えとして、それは避けたいので。
父のように「俺だけは死なないんじゃないか」とか「老いてこんなになるわけない、そんなはずないと思ってた」なんてセリフを、真面目に吐くことはないようにしたいものです。
生きとし生けるものみな、早死しない限り老い衰えるのだし、いつか命の終わりがあるのだという理を、きちんと弁えて受け入れたいですね。
ということで、寂しい話だけだと何ですので...いや別にただ自然の法則なので本当は寂しくもないのですが、おまけにこちらを置いておきます。
今度の水曜日に発売になる小倉唯さんのニューアルバム「Bloomy」のメイキングビデオのショートバージョンです。
満開にBloomした花も、いつかは散る...のですよね。
この前の日曜日のネットラジオで、そのことを儚い、と書いてきたファンに対して唯さんは...
「ただ儚いというだけではなくて、花は刹那に散っても、また別の花が咲きいつか満開になる...」
「そうした連関がずっと永遠に続いて行くというね...満開の花が儚いのは必ずしもネガティブなことじゃないんだっていう...分かりますかね、そういうなんかちょっと高次元のことを書いているので」
と言っていましたよ。
「ひとつの意味だけにしか読めない歌詞じゃなく、その裏に何層も意味を埋め込んだものを書きたい」
「もしそこに、書いた本人が思いもよらなかった意味を読み取る人がいたなら、それもありだと思います」
と言っている唯さん。
作詞家、ですね。