心清き者は、神仏を降臨させ、心卑しき者は、悪魔(魔神)を降臨させる・・。この言葉は大変、重要で、長い修業の中で、戒めとして心に深く刻んでおります。
悪しき心は、正しい教えを聞き誤り、悪しき神の言葉を聞き入れてしまう恐れが有るからです。
「私・・・のみを信じなさい・・。」と、ある宗教の教えで他の教えは邪道である・・と言われていますが、、、神と交信をされた際、
悪しき心を少しでも持っていると、正しき神の御声を教えを聞いたつもり見たつもりが、魔神の教えを見聞きする恐れが有ります・・。
それほどに神と魔神(悪魔)は、近くに対座し、交信の際に、同時に現れる場合も有れば、神に化けた姿を見せる場合も有ります。
魔神(悪魔・悪しきもの)は、神にさえ簡単に化けてしまうとても厄介な存在なのです。
ですから、「私・・・のみを信じなさい・・。」と言われたのは、交信の際、悪しきものが近くに存在したのかもしれません。
心(魂)白き者に神は必要によって姿を変え名前を変え現れます・・・求める人に降臨されます。
真白ろき・・限りなく聡明で美しく清き魂に私は出会った事があります。初めでの経験でした・・・。
そのお方は、イエスキリストで、あのお方ならば確かに正しい神の教えをお受け取りに成ったのだろうと確信がでました。
神の教えは、見聞きした本人が書き記したものでは無く、伝道師・・弟子と言った方々が後に書き記した物なので、
微妙に真実と違う場合も有るかもしれません。今と成っては、分かりかねますが・・。
ここで、少しイエスキリストについてお話をしよう。
イエスキリストは、大工の子とし生まれ、父親を手伝いその後、父親を亡くしその後は、兄弟や母親の面倒を見、家族の為に生計を立てていた。
子供の頃から宗教の勉強を怠らなかった。30才頃に、洗礼を受けた時に目覚めた。その後、教えを説き、やがて弾圧を受け、十字架に処せられた。
捕まった時に、それまで同行していた弟子達は、捕まるのを恐れ、イエスキリストを知らぬと嘘を付き、イエスから離れた。イエスの死後、悔い改め伝道師と成った。
そして、イエスキリストは、黄泉の国では無く、神の国に入られた。
目覚める以前を考えても、恵まれ豊かな生活をしていた訳では無い様で、目覚めた後は、住む場所も財も何も持たず、教えを説いて弾圧を受け、最後には、
弟子に裏切られ、苦痛の十字架に処された。
両手両足を釘で打たれ、腰骨を砕かれ、横隔膜で息をする苦痛を3時間にも渡り受けた後に、召された。
「我が神・我が神・・・どうして、私を見捨てられたのですか。」と十字架でイエスの最後の言葉が有る。
しかし、その言葉には続きが有る。詩篇第22である。「それでも、私は、神を愛し信じ悪しきものと戦う・・・。」と言った内容の詩篇である。
イエスキリストが「どうして、私を見捨てられたのですか・・?」と、言った言葉は、分かる気がします。
どん底の場では、全く神仏の言葉も姿も無く、気配さえも感じない時が有ります。
それはまるで、「それでも私を信じ受け入れますか・・。」と、試されている・・そんな感じがします。
しかし、「それでも私は、神を愛し信じ、悪しきものと戦う・・。」その意味も良く理解ができます。
私もそう思ったからで、今もそう思っております。
イエスキリストの言う「悪しきものと戦う・・。」それは、この世で弾圧した悪しき者達との戦いを意味するものばかりでは無く、
死後も神となられた後も、悪しき者(悪魔・魔神)と戦うとの意味でもあります。
正しき神は、悪魔の消滅を目的とする・・。悪しき心を打ち払う為の教えを説き、愛の意味を説き人々を幸せへと導かれる。
正しき神は、代償を求めない・・。
悪しき神は代償を求める・・。死後、魂の取り込みをする。「いい思いをさせてやっただろう・・。願いを簡単に叶えてやっただろう・・。だから代償にお前の魂をよこせ・・。」と。
取り込まれた魂は、悪魔と一体化される・・。これを地獄に落ちる・・とも言います。魂は、天には上れない。
それはまるで同様のものが、磁石にひき寄せられる様に似ています。
神も御仏も、甘くはありません。なかなか簡単には望みを叶えてはくれません。
しかし、どんな境遇の中でも正しく清く生きたものは、天上へと導き迎え入れられます。これもまた、同様のものが磁石に引き寄せられる様に似ています。
これを天国・極楽への導きと言います。
つづく・・。
maco coishi