あれから55年・・アンヌのひとりごと

ズバリ!団塊の世代。ひし美ゆり子のブログsince・06・1・14

理不尽・・

2006年02月26日 15時52分51秒 | Weblog
夫は産みの母と40年以上前に生き別れた・・。

夫は台湾人の父と日本人の母の間に昭和30年11月に生まれた。
やがて35年12月・・37年1月にふたりの妹が次々生まれた。
・・そんな頃、父親が他の女性に走ってしまった。
残された4人の母子家庭、妹ふたりを兄の7才の少年に託し、
毎晩、母は割烹料理の仲居さんで日給を稼ぎに出掛けていった。
ピィピィ泣く妹達にご飯やミルクをあげ、おしめを替える、
これがたった7才の少年の日課か・・!?

小学校3年の頃、念願の新品自転車を買って貰った。
翌日に、勇んで学校から帰ったら、その自転車は既に質草に・・
お金に困った母は月賦で購入した自転車を換金したのだ、
いわゆるこれが本当の自転車操業??
アパートの雨漏りはひどいし、水道は止められるし、
タンスには赤紙が貼られる・・といった想像を絶する生活。
そんな話、私には何だか映画で見ている様な世界だ。

一番トラウマになってるのは学校の運動会だったと思われる。
寡黙な主人の口から3回ほど聞いているから分かる。
運動会のお弁当のコトだ。皆、敷きゴザの上でご馳走拡げて
家族輪になってお昼を食べているのを横目でみながら
独りウロウロ当てにならない母が弁当を持って来るのを待ったコト・・
結局来なかったのだそうな。ウ~~ン何とも可哀想。

でも、話の中には一寸矛盾もある。母が毛皮のコートを着て
授業参観に来るのは綺麗で鼻が高かった・・とも耳にしている。
たぶんお金の使い方が下手な母親なのかもしれない。

やがて父親から連絡が入り「こっちに来るか?」
迷いもせず「ウン!」と兄は一目散に父親の元にとんでいった。
少しして上の妹も来た・・そして下の妹も結局3人とも父親の手元に。
泣きじゃくりながら追いすがる幼い末妹を、母の手から兄が引き離し、
坂を泣きながら下って行った母の後ろ姿・・それが最後だった。
昭和40年夏まだ9才だった。その後2度3度、中学・高校の頃か?
瞼の母逢いたさに何度か厳しい継母の目を逃れ、家出を図って
母の田舎を訪ねたらしいが、行方知れずで再会は叶わなかった。


昨日我が家のポストに「重要書在中」なる封書が届いた。
差出人は○○株式会社・債券管理本部となっている。
それは主人の母が消費者金融から借りたと思われる返済通知だ。
再婚したらしく借りた時の姓は違っていたがその後に
離婚したと思われる。
昭和54年に借りた20万円が1283040円にもなっていて、
残念ながら既に他界してますので調査した結果
相続人である貴方さまが民法○○条により返済する事に
なるでしょう。と・・

5年ほど前にも別会社からそのような通知が主人とふたりの妹
のところへ届いた。その事で母が亡くなったことを知らされた。
慌てて弁護士さんに頼んで相続放棄の手続きをした事があった。
でも9才の時に別れたままの母の借金が、辿り辿って何とも
理不尽であろう。ましてや母親の顔も知らない妹達は尚更だろう。

フ~~ッ・・明日また弁護士さんに連絡しなきゃ。
払わなくたって大丈夫に決まっているけど、
女房としてもまたこんな厄介な事、些か閉口している。
理不尽・・。