私の生家は新宿駅から15分圏内の中野区(現若宮1丁目)
昭和28年4月のある朝、父が一緒に出かけるよう私を急き立てた。
「どこいくの?」
「いい所に連れてってあげる。」
外出は父との事が断然多かった私。
前日に新調した緑の長靴を履いて父に手を引かれ連れていかれた。
何と、その日は幼稚園入園式だった。
四人姉兄の末っ子の私だが当日まで入園を知らされなかったのは
端(はた)から見れば一風変った水臭い家族に見えるだろうが、
留守がちな父と寡黙な母だもの我が家にとっちゃ決して珍しい事ではない。
その上、姉兄はクラスメートとの遊びに夢中で私はいつも味噌っかす。
入園までひとり遊びの毎日だった。
野方駅あたりを南に下って家から徒歩10分程「大和幼稚園」はあった。
近くに妙少寺川が流れていて辺りは畑も多く風向きでソースの匂りがした。
後で人伝てに知ったのだが当時近くにソース工場があったらしい。
2軒隣に引っ越して来たばかりの某化粧品会社のお偉いさんの邸宅があった。
そこのおぼっちゃまヤスタカちゃんと幼稚園入園によって知り合った。
彼は色白で利発そうで、いでたちはいつも良家の子息といった風貌だった。
私は一年中、四季天候に拘らずあの緑の長靴を履かされて通園していた。
子供心にも少々恥ずかしかったが、家業と4人の子供の世話に追われていた母には
今思うとそこまで構っている余裕はなかったのだろう。
ヤスタカちゃんとお手て繋いで一年間幼稚園生活の始まりだ。
長靴のせいではないがある日幼稚園帰りに転んで左腕を骨折した。
大泣きをしている私を「痛い?大丈夫?大丈夫?」
その優しさ労りの言葉に生まれて初めての感動を覚え、ふと泣き止んだ。
家まで送り届けてくれた彼はまるで王子さまにみえた。
かと言ってカルピスの味ではない。私は彼のお母さんのほうが憧れだった。
私の母は40才に手の届くいつも化粧気のない地味な和装姿だったが、
彼のお母さんはまだ20代だろうか若くて綺麗でいつもモダンな洋服姿だ。
少女心にいつも羨望の眼差しでみている変な私。今で言うストーカーか。
ある日、当時としては珍しい「ストッキング」を履くお姿を垣間見てしまった時、
はっと一瞬息を呑みしばらく胸の鼓動が治まらなかった。
少年だったらあり得る話だろうが少女の私が血が騒いでどうするんだ。
そういえば幼稚園でパーマネントをかけていたフジノナツコちゃん。
口も利いたこともなかったが50年以上経って未だフルネームで憶えているのは
今思うと私って単純にモダンな人に異常に憧れる女の子だったようですね。
無い物ねだりの心境かな。
ちょうどこの頃七五三を迎えたのだった。
記念写真に洋服姿で腕を吊ってる痛々しい写真を見た記憶があるけど、
その写真は紛失して今になっては定かじゃないが足下は長靴だったかどうなのか?
大人になった今でも笑い話しのように姉に言われる。
「地谷子はいっつも緑の長靴を履いてたわね~ふふふ。
鼻水拭いてクワンクワンに乾いたセーターの両袖がピカピカひかってた。
汚かったわぁ連れて歩けなかった。あの頃誰にも構って貰えなかったものね」
『緑の長靴』・・未だに忘れられないフレーズだ。
昭和28年4月のある朝、父が一緒に出かけるよう私を急き立てた。
「どこいくの?」
「いい所に連れてってあげる。」
外出は父との事が断然多かった私。
前日に新調した緑の長靴を履いて父に手を引かれ連れていかれた。
何と、その日は幼稚園入園式だった。
四人姉兄の末っ子の私だが当日まで入園を知らされなかったのは
端(はた)から見れば一風変った水臭い家族に見えるだろうが、
留守がちな父と寡黙な母だもの我が家にとっちゃ決して珍しい事ではない。
その上、姉兄はクラスメートとの遊びに夢中で私はいつも味噌っかす。
入園までひとり遊びの毎日だった。
野方駅あたりを南に下って家から徒歩10分程「大和幼稚園」はあった。
近くに妙少寺川が流れていて辺りは畑も多く風向きでソースの匂りがした。
後で人伝てに知ったのだが当時近くにソース工場があったらしい。
2軒隣に引っ越して来たばかりの某化粧品会社のお偉いさんの邸宅があった。
そこのおぼっちゃまヤスタカちゃんと幼稚園入園によって知り合った。
彼は色白で利発そうで、いでたちはいつも良家の子息といった風貌だった。
私は一年中、四季天候に拘らずあの緑の長靴を履かされて通園していた。
子供心にも少々恥ずかしかったが、家業と4人の子供の世話に追われていた母には
今思うとそこまで構っている余裕はなかったのだろう。
ヤスタカちゃんとお手て繋いで一年間幼稚園生活の始まりだ。
長靴のせいではないがある日幼稚園帰りに転んで左腕を骨折した。
大泣きをしている私を「痛い?大丈夫?大丈夫?」
その優しさ労りの言葉に生まれて初めての感動を覚え、ふと泣き止んだ。
家まで送り届けてくれた彼はまるで王子さまにみえた。
かと言ってカルピスの味ではない。私は彼のお母さんのほうが憧れだった。
私の母は40才に手の届くいつも化粧気のない地味な和装姿だったが、
彼のお母さんはまだ20代だろうか若くて綺麗でいつもモダンな洋服姿だ。
少女心にいつも羨望の眼差しでみている変な私。今で言うストーカーか。
ある日、当時としては珍しい「ストッキング」を履くお姿を垣間見てしまった時、
はっと一瞬息を呑みしばらく胸の鼓動が治まらなかった。
少年だったらあり得る話だろうが少女の私が血が騒いでどうするんだ。
そういえば幼稚園でパーマネントをかけていたフジノナツコちゃん。
口も利いたこともなかったが50年以上経って未だフルネームで憶えているのは
今思うと私って単純にモダンな人に異常に憧れる女の子だったようですね。
無い物ねだりの心境かな。
ちょうどこの頃七五三を迎えたのだった。
記念写真に洋服姿で腕を吊ってる痛々しい写真を見た記憶があるけど、
その写真は紛失して今になっては定かじゃないが足下は長靴だったかどうなのか?
大人になった今でも笑い話しのように姉に言われる。
「地谷子はいっつも緑の長靴を履いてたわね~ふふふ。
鼻水拭いてクワンクワンに乾いたセーターの両袖がピカピカひかってた。
汚かったわぁ連れて歩けなかった。あの頃誰にも構って貰えなかったものね」
『緑の長靴』・・未だに忘れられないフレーズだ。