昭和22年6月10日生、地谷子(ちやこ)と名付けられた。
「地の谷の子?」妙な名前でしょ。地獄の谷に落ちた子みたいで。
由来はいまだにはっきりしない。
母にきいても「八卦に付けてもらった」としか言ってくれないし。
まさに戦後のベビーブーム世代で出生した新生児は未だ戦後最高の記録だ。
生家の辺りは一軒が割にゆったりしていて土地持ちの農家のほかは
早稲田大学沿線でもあり大学教授や会社社長の新しい邸宅が多かった。
父がそこへ居を構えたのは昭和18年戦争の真っただ中、
エンジニアとして従事した兵器の会社から賞与で家が貰えたらしい。
戦争で財を成したなんて皮肉なもんですね。
8才年上の姉が度々自慢していた。
「お父さんは戦争中黒塗りの車でお抱え運転手の送り迎え、
家には2人のお手伝いさんがいて私とぼうや(長兄)は
乳母日傘(おんばひがさ)で育てられたのよ」と。
でも本当のところは分かりませんっ!私の生まれる前なんだから。
戦後は転身していて父自身が発明した拡大器の会社
「スミラ工藝社」を興していたのだった。
拡大器とは相似を利用して地図等を描く、
いわば手動式の拡大コピー機といったところです。
ひとつ百円で単純なものですがあの時代は
「菱見時彦先生の驚異的な発明!」
ともてはやされ神田の三省堂に売り場コーナーが有り、又
講談社の少年雑誌の通販でも一時ブームで飛ぶように売れたらしい。
調子に乗った父は入る日銭で毎日宴会をつづけ、
まったく先見の明のかけらもなかったのでしょう。
私が物心付いた頃は下降気味で一家の生活は大きく変っていたのです。
すでに外注に出す余裕もなくまさに家内制手工業状態で、
姉や長兄が鉛筆を削ったり箱を折ったりして手伝い、
母はせっせと商品を組み立ておまけに8畳の間(ま)には
寝たきりの姑のしもの世話までやってたんです。
ひきかえ眼が醒めぬ父は酒びたりで連日連夜帰りが遅く、
母の心中は穏やかではなかったでしょう。
いつしか暗い無口な母親になっていました。
世間では優しくおとなしい地味めな人と思われがちだが、
ところがドッコイ私たちが寝入った頃を見計らって
父への真夜中の逆襲を挑んでいたんです。
末っ子の私が一番よく分っていたはずです。
いつも母の布団に同衾していた私は何度も目の当たりにしました。
母の尖り声で眼を覚まし恐ろしさのあまり布団をかぶり
ひとりさめざめと泣いたこともしばしばです。
時には父がご機嫌取りに買って来た土産菓子が
なんと宙をとんで玄関に叩き付けられていたのです。
あくる朝玄関のタタキにはカリントウやマコロンのお菓子が散乱ていたのが
母の逆襲の凄さを物語っていました。
翌朝兄たちと拾ってフ~フ~息を吹きかけゴミを払って食べたのものです。
しかし両親の喧嘩のことは子供たちの間では誰の口からも出なかった。
子供ながらにもお互い触れてはいけないものだと只々黙々と拾って食べたのでした。
そんな暗くなっていた家庭に祖母の葬式が出た。
来客など殆どなくなっていた我が家に人々が集まりお酒が振舞われ果物やご馳走が出、
幼い私には葬式といえどワクワクお祭り気分で一杯だった。
そういえばあの頃・・
母の写ってる写真は総べてが母の顔だけ丸くちぎられていた。
子供心にとても不思議だったが、私と親子程違う従兄の口から解き明かされた。
「僕はおばさんを洋風な顔で綺麗な人だと思ってたけど、
見合いで嫁に来た当時、日舞の家元だった姑や小姑に
その洋風な顔がウンヌンとかなりいじめられたんだ。
それを気にして自分自身の写真を破ったのだと思うよ」
従兄からその謎を聞かされたのはず~っと後の事、
祖母の葬式以来30年振りに再会した父の葬儀の時だった。
「地の谷の子?」妙な名前でしょ。地獄の谷に落ちた子みたいで。
由来はいまだにはっきりしない。
母にきいても「八卦に付けてもらった」としか言ってくれないし。
まさに戦後のベビーブーム世代で出生した新生児は未だ戦後最高の記録だ。
生家の辺りは一軒が割にゆったりしていて土地持ちの農家のほかは
早稲田大学沿線でもあり大学教授や会社社長の新しい邸宅が多かった。
父がそこへ居を構えたのは昭和18年戦争の真っただ中、
エンジニアとして従事した兵器の会社から賞与で家が貰えたらしい。
戦争で財を成したなんて皮肉なもんですね。
8才年上の姉が度々自慢していた。
「お父さんは戦争中黒塗りの車でお抱え運転手の送り迎え、
家には2人のお手伝いさんがいて私とぼうや(長兄)は
乳母日傘(おんばひがさ)で育てられたのよ」と。
でも本当のところは分かりませんっ!私の生まれる前なんだから。
戦後は転身していて父自身が発明した拡大器の会社
「スミラ工藝社」を興していたのだった。
拡大器とは相似を利用して地図等を描く、
いわば手動式の拡大コピー機といったところです。
ひとつ百円で単純なものですがあの時代は
「菱見時彦先生の驚異的な発明!」
ともてはやされ神田の三省堂に売り場コーナーが有り、又
講談社の少年雑誌の通販でも一時ブームで飛ぶように売れたらしい。
調子に乗った父は入る日銭で毎日宴会をつづけ、
まったく先見の明のかけらもなかったのでしょう。
私が物心付いた頃は下降気味で一家の生活は大きく変っていたのです。
すでに外注に出す余裕もなくまさに家内制手工業状態で、
姉や長兄が鉛筆を削ったり箱を折ったりして手伝い、
母はせっせと商品を組み立ておまけに8畳の間(ま)には
寝たきりの姑のしもの世話までやってたんです。
ひきかえ眼が醒めぬ父は酒びたりで連日連夜帰りが遅く、
母の心中は穏やかではなかったでしょう。
いつしか暗い無口な母親になっていました。
世間では優しくおとなしい地味めな人と思われがちだが、
ところがドッコイ私たちが寝入った頃を見計らって
父への真夜中の逆襲を挑んでいたんです。
末っ子の私が一番よく分っていたはずです。
いつも母の布団に同衾していた私は何度も目の当たりにしました。
母の尖り声で眼を覚まし恐ろしさのあまり布団をかぶり
ひとりさめざめと泣いたこともしばしばです。
時には父がご機嫌取りに買って来た土産菓子が
なんと宙をとんで玄関に叩き付けられていたのです。
あくる朝玄関のタタキにはカリントウやマコロンのお菓子が散乱ていたのが
母の逆襲の凄さを物語っていました。
翌朝兄たちと拾ってフ~フ~息を吹きかけゴミを払って食べたのものです。
しかし両親の喧嘩のことは子供たちの間では誰の口からも出なかった。
子供ながらにもお互い触れてはいけないものだと只々黙々と拾って食べたのでした。
そんな暗くなっていた家庭に祖母の葬式が出た。
来客など殆どなくなっていた我が家に人々が集まりお酒が振舞われ果物やご馳走が出、
幼い私には葬式といえどワクワクお祭り気分で一杯だった。
そういえばあの頃・・
母の写ってる写真は総べてが母の顔だけ丸くちぎられていた。
子供心にとても不思議だったが、私と親子程違う従兄の口から解き明かされた。
「僕はおばさんを洋風な顔で綺麗な人だと思ってたけど、
見合いで嫁に来た当時、日舞の家元だった姑や小姑に
その洋風な顔がウンヌンとかなりいじめられたんだ。
それを気にして自分自身の写真を破ったのだと思うよ」
従兄からその謎を聞かされたのはず~っと後の事、
祖母の葬式以来30年振りに再会した父の葬儀の時だった。